ラベル アンティーク・ガラス豆百科 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル アンティーク・ガラス豆百科 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年2月19日木曜日

アンティーク・ガラス用語豆辞典 《マ行》《ラ行》

1年以上前に始めたガラス用語豆辞典、長らく中断してしまいましたが漸く最終項をUPします。
細かく拘れば、まだまだありますが、一応『これだけ分かればあなたもアンティーク・ガラス通』レベルの用語は網羅したかな?と思っております。
私自身の復習という目的も半分以上ありましたが、何かのお役に立てていただけたら嬉しいです。
オレンジ色の文字をクリックすると、関連ページにジャンプしますので参照されたい時にご利用ください。
画像をクリックすると、更に大きくご覧になれます。

《マ行》
マーブルガラス marbled glass
何色かの異なる色ガラスを加熱して混ぜ合わせ、大理石のような縞目を付けたガラス。古代より用いられた技法だが、近代のDaumなどのヴィトリフィカシオン技法による斑文ガラスや、模様入りのビー玉などもマーブルガラスと呼ばれることがある。

マルケトリー marqueterie
あらかじめデザインに応じて作っておいたガラスの小片(花や葉などのモティーフ)をガラス器の所定の場所に熔着し、素地にならし込んで模様を作るエミール・ガレが特許を取得したガラスの加飾法。本来マルケトリー(仏)とは寄木細工や金属、鼈甲、貝などの小片を象嵌して模様を作る家具の装飾技法を指し、ガレもそこから発想しガラスに応用したといわれる。
この野心的な技法は表現の自在性、多様性が得られる一方、技術的にデリケートで難しく、失敗が多いため多用はされず、ガレ作品の中でも特に芸術的な傑作や試作品にのみ見られる。

マルトレ martelé
『ハンマーで叩かれた』という意味のフランス語で、厚手のガラスにグラインダーで銅鍋に見られる槌目のようなファセットカットを施すガラスの加飾法。Daumの作品に多く見られる。

ミルクガラス milk glass
ガラスの原料に金属酸化物などを混ぜて不透明にしたオパリーヌの白いものを指す俗称。
優しいミルク色が愛されてコレクターも多い。アメリカのメーカー、フェントンのミルクガラスは特に知られている。


ミルフィオリ millefiori
細い色ガラスの棒を組み合わせて金太郎飴のように断面が模様になるように作ったガラス棒をスライスし、こうしたピースをモティーフとしてガラスに溶かし込む技法。古代から現代まで、トンボ玉、器、ペイパーウェイト、アクセサリーなど様々な装飾的なアイテムに用いられている。
語源は『千の花』を意味するイタリア語で、19世紀半ばから使われ始めたネーミング。それ以前はモザイクと呼ばれていた。

ムラーノ・ガラス Murano glass
ヴェネツィアン・グラスの別称。古来よりヴェニスのムラーノ島で作られてきたガラスなのでこう呼ばれる。因みにフランスのアンティック界では専らMuranoと通称されている。

モザイク・ガラス mosaic (mosaïque仏) glass
あらかじめ用意したガラスの小片を寄せ合わせて熔着させて一体化したり、ジグゾーパズルのように嵌め込んで絵柄を構成したりする技法。ミルフィオリもモザイクの一種である。

モスク・ランプ mosque lamp
モスク(イスラム教の礼拝堂)にたくさん下がっているガラスの吊りランプ。胴が括れて口の大きく開いた花瓶型でチェーンや吊り紐を通すための小さな耳が3~4個付き、多色エナメル彩で寄贈者の名前やコーランの一節などの文字やアラベスク模様が装飾的に描かれたものが多い。
本来イスラム・ガラスが華々しく栄えた13~14世紀に多く作られ、ヨーロッパにも早くからコレクターによって集められた。19世紀半ばにフランスのガラス工芸家BrocardやGalléがその美しさを再発見し、模倣した作品(花瓶)もモスク・ランプと呼ばれる。

《ラ行》
ラスター彩 luster →イリデッセンス
(ラスター彩ガラスの主要な作家ティファニーやレーツについてはこちらもご参照ください。)

ラッティモ lattimo →ミルクガラス
(ヴェネツィアン・グラスに限り、ミルクガラスと呼ばずにラッティモと一般に呼ばれる。)


ラメル lamelles →マルケトリー
(薄片を意味するフランス語。ガレのマルケトリーと同じ手法だが、特許のため他の作家の作品においてはラメルと言われる。特にDaum作品に多く見られる。)

レース・ガラス →フィリグラーナ

レッド・ガラス(レッド・クリスタル)lead glass (lead crystal) →鉛クリスタル

2014年5月18日日曜日

アンティーク・ガラス用語豆辞典 《ナ行》《ハ行》

《ナ行》
鉛クリスタル (レッド・クリスタル lead crystal)
原料に酸化鉛を含むクリスタル・ガラス。17世紀にイギリスで発明されて以来現代まで主流といえる代表的なクリスタル。
(詳しくはアンティーク・ガラス豆百科-その2-もご参照ください。)

《ハ行》
パティネ patiné
『古色を付けた』という意味のフランス語の形容詞で、黒、茶、緑、金などで着色されたブロンズをブロンズ・パティネと呼ぶように、本来彫刻などに使われる技法を指す。ルネ・ラリック等アール・デコのガラス作家がこれを応用し、色を溶かしたアラビアゴム系の糊を無色のガラス製品の表面に塗布し乾燥させて着色し、レリーフ模様を際立たせるなどの効果を出すための簡易な加飾法として多用した。
エミール・ガレが特許を申請したパティネは、溶けたガラス素地に不純物を混入し、化学反応を起こさせて錆のような古色を出すという技法だが、晩年の作品に極稀に用いられた。

パット・ド・ヴェール pâte de verre
本来『ガラスのペースト』という意味のフランス語。色ガラスの粉末を糊で練って鋳型に充填し、型のまま焼き上げて中のガラスを溶解させて成形する技法。(詳しくはアンティーク・ガラス豆百科-その21-もご参照ください。)

ハンドカット・ガラス hand-cut glass →カットガラス




ビードロ vidro
江戸時代のガラスの呼称。ガラスを意味するポルトガル語vidroが語源といわれる。薄手のシンプルな吹きガラスをビードロと呼び、カットをほどこした高級なガラスをギヤマンと呼んだとの説もある。

ファソン・ド・ヴニーズ façon de Venise
『ヴェニス風』とか『ヴェニス式』という意味のフランス語で、ルネッサンス期にヨーロッパ中を席巻したヴェネツィアン・グラスを模倣してフランス、ドイツ、オランダなどで作られたガラス器を指す。各国の王侯貴族がヴェニスのガラス職人を引き抜き自国に招聘して作らせたものであろうといわれる。(詳しくはアンティーク・ガラス豆百科-その8-もご参照ください)

フイユ・メタリック ( ペルル・メタリック ) feuilles métalliques  ( perles métalliques )
ガラス素地の中に金、銀、プラチナ箔などをサンドウィッチ状に封入して加熱し、吹いて箔を散らして地模様を作る技法。正しくはinclusions de feuilles métalliques (金属箔の混入)というフランス語。日本では、feuilles(箔)ではなくperles(珠)と伝えられている。

フィリグラーナ filigrana
日本ではレースガラスと呼ばれるヴェネツィアン・グラスに多用される技法またはその素材になるレース棒およびこの技法を用いたガラス器そのものを指すイタリア語。語源は線、糸を表すラテン語に発し、因みに銀や金の針金細工もフィリグラーナという。


プレス・ガラス pressed glass →型押しガラス

フロスト・ガラス frosted glass →サティネジヴレ


  

2014年2月17日月曜日

アンティーク・ガラス用語豆辞典 《タ行》

日本はあちらこちらで大雪だとか…。
大変な目に遭っている人々には申し訳ないので大きな声では言えませんが、正直なところちょっと羨ましいです。
ソチ五輪、こちらは時差-3時間なのでちょうど良い時にTVで観られます。
フィギュアスケートの羽生結弦選手(フランスの記者はユジュリュ・アニューと発音)やジャンプの葛西選手の勇姿もしっかりライヴで観て、手に汗を握り、胸を熱くしました。
フランス生活の方が長い私ですが、やっぱり日本人。絶対的に日本の選手を応援してしまいます。
浅田真央選手もがんばって欲しい!今からドキドキしてます。


ダイヤモンド・ポイント彫り diamond-point engraving
先にダイヤモンドの細片を取り付けたペンシル状の道具を用い、点刻、線刻で模様を彫るガラスの彫刻技法。16世紀のヴェネツィアン・グラスでレース模様を彫るのに使われた技法で、後にオランダ、イギリスなどに伝わり、絵画的で繊細な加飾法として発達した。

チップ chip
ガラス器の縁などにできた小さな浅いカケ。和骨董の陶器類でいうホツにあたる。   

宙吹き(ちゅうぶき)
溶けたガラス種を吹き竿の先に巻き取り、空中で息を吹き込み風船のようにガラスを膨らます成形技法。型を使わずに竿を回しながら吹き加減で基本的な器のボディーを作る。紀元前1世紀後半ローマン・ガラス時代に発明された技法で、これにより一挙にガラス器が普及したといわれる。現代でもハンドメイドのガラス器制作に広く用いられている技法である。


チューリップ tulipe
電球を包むような形で口が開いているガラス製のランプシェードを指すフランス語。花のチューリップのような形状による呼称。因みに笠型シェードや、口が開いていない球形や紡錘形のシェードは別の呼び方がある。

ツイストステム twist stem
無色透明なグラスの脚(stem)に空気や不透明ガラスの捻り(twist)模様を封入した加飾法。18世紀のイギリスのグラスに多く見られる。

トンボ玉(ビーズ)
穴の開いたガラス玉のことで、古代エジプトやメソポタミアでネックレスなどの装身具の材料として作られていた。トンボの目のような模様を付けたものが多いため日本ではトンボ玉と呼ばれるようだが、欧米ではアイ・ビーズ(eye beads)と呼ばれる。


2014年2月8日土曜日

アンティーク・ガラス用語豆辞典 《サ行》

いよいよソチ冬季オリンピック開幕ですね。今パリ時間16:30ですが、もう30分もしたらオープニング・セレモニーが始まるらしいので、久々にテレビを観ます。
2月に入ってもパリは依然として寒くなりません。このまま春になりそうな気配で、何かやることを忘れているようなスッキリしない気分なので、せめてソチの映像を見て冬を感じたいと思います。


サティネ satiné(フロスト加工)
本来サテン(絹織物)のように滑らかで光沢のあるという意味のフランス語の形容詞だが、サティネされたガラスとは、酸やサンドブラストなどで表面をマット状に加工した半透明なガラスを指す。曇りガラス、磨りガラスともいう。英語では霜に覆われたような(frosted)という表現を用いるところからフロスト加工ともいわれる。ジヴレ(後述)よりも滑らか。

サリシュール salissures
不純物、汚れという意味のフランス語だが、溶けたガラス素地に金属酸化物の粉末を混入し、天然石のような色の斑文を作り出すガラスの着色法。パリ派のウジェーヌ・ルソーやナンシー派のガレなどアール・ヌーヴォーの作家が主に東洋趣味な作品に用いた技法。

酸化腐食彫り →acide

サンドブラスト sandblast
金剛砂などを圧縮空気でガラスの表面に吹き付けて削る加飾方。一種のグラヴュール。削らない部分を保護膜で覆い、模様を彫刻する。砂の当て方によって彫りの深さを自在に調節してニュアンスを付けたり、立体的な作品を作ることもできる最もシンプルなガラス彫刻技法。元々船舶の錆落とし用に開発された技法で、1920年代以降ガラス工芸に応用されるようになった。

ジヴレ givré
霧氷に覆われたという意味のフランス語で、ガラス用語としては酸による腐食(アシッド、エッチング)やサンドブラストを用いてガラスの表面を荒らし、凍りついたような梨地や霧氷模様にすることを指す。広い意味でフロスト加工ともいうが、サティネ(前述)よりも凹凸が大きくザラッとした仕上げをいう。初期(19世紀末)及びアール・デコ期のドームの作品に多用された。


シール・ペルデュ cire perdue(ロスト・ワックス鋳造)
シールは蝋、ペルデュは失われたという意味のフランス語で、英語のlost-wax に当たる。蝋型鋳造ともいわれ、もともとブロンズなどの鋳造技法であったが、これを応用したガラスの技法。蝋で作った原型を耐火石膏などで覆い、固まった後に加熱して蝋を溶かして除去し、できた空洞(鋳型)に溶けたガラスを流し入れ(またはガラスの砕片や粉末を充填して焼成し)徐冷した後、石膏型を解体してガラスを取り出す。粘土などで作った原型から雌型を取って蝋型を作った場合には、何度か繰り返し同じ型の作品を作ることができるが、多くの場合、1点から数点の少数制作に使われる技法。ルネ・ラリックやパット・ド・ヴェール作家のデコルシュモンの作品が有名。

ステムウェア stemware
脚付きのドリンキング・グラスの総称。stemは茎や軸を意味する英語だが、脚付きグラスの脚の部分をステムと呼ぶ。因みに脚の無いグラスは一般にタンブラーと総称される。

ステンドグラス stained glass
字型の断面を持つ鉛の枠で、色ガラスの小片を繋ぎ合わせてパッチワークのように絵や模様を表現したガラスのパネル。中世ヨーロッパの教会の窓に使われたのが始まりで、フランスで発展した。12世紀の代表的なゴティック建築の一つであるシャルトル大聖堂のステンドグラスは特に有名。19世紀末のアール・ヌーヴォー期には個人の邸宅、銀行、デパートなどの建物や、ランプシェードなどにも大いに使われた。因みにステンド・グラスとは本来着色されたガラスという意味の英語で、フランス語ではvitrailヴィトライユという。

スフレ soufflé
スフレとは吹いた(空気を吹き込んだ)という意味のフランス語で、吹きガラス全般を指す言葉でもあるが、アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラスの場合、特殊な技法を意味する。例えば、ガレの第三期工房時代の作品に見られる果実や花や動物が著しく立体的にレリーフ状に吹き出された型吹きの花瓶や、マジョレルの鍛鉄の枠に吹き込んで枠の外にガラスをはみ出させた一連のドーム/マジョレルの器などを特にスフレ作品と呼んでいる。




2014年1月30日木曜日

アンティーク・ガラス用語豆辞典 《カ行》

去年の暮れから待っているのに、今年になって、1月も終わるというのにパリでは未だ雪が降りません。暖冬です。
風邪だけはしっかり引きました。暇過ぎるせいかも知れません。なんだかつまらない…。
特にお知らせしたいことも、記録しておきたいことも起こらないので、ガラスのお勉強を続けることに致しましょう。


型押し(プレス成形)
金属などで作った凹型の型に溶けたガラスを流し込み、凸型の型を押し付けて成形する量産、機械化に適したガラス成形法。型の精密度によってカットガラスや彫刻したガラスと見紛う作品まで制作可能。

型吹き
金属や木などで作った型の中に、吹き竿に絡め取った溶けたガラスを吹き込んで中空の器などを作る成形法。一つの型で同じ形や装飾のものを繰り返し量産することができる。ラリックは職人が息を吹き込む代わりにコンプレッサーで圧縮空気を送り込む方法を考案し、これによって型の細部まで均一にガラス種が押し付けられ、複雑なパターンも鮮明に再現されて量産された。

カットガラス(切子)
成形後にグラインダーと研磨剤を用い表面を削ったりカッティングで模様を刻んだガラス製品。職人の手仕事によって加飾されることを強調してハンドカット・ガラスともいう。比較的厚手のクリスタルガラスに幾何学的な模様をほどこしたものが多い。グラヴュールが絵画的で彫りが浅い加飾法であるのに対し、カットは彫刻的で彫りが深く、多くの断面に光が反射してキラキラする効果を生かした加飾法である。和ガラスでは切子(きりこ)という。


カボション cabochon
ガラスの表面に、宝石のカボション・カットのようにツルンとした丸いガラスの小塊を溶着する加飾法。本体とカボションの間に金・銀箔を挟み込んだり、本体の色と違う色ガラスを使うなどして宝石が象嵌されいるかのような効果を出す。ガレやドームの古い少数制作品に見られる技法で、たいへん珍重される。

カメオ・ガラス cameo glass
色被せガラスに浮き彫り(レリーフ、カメオ彫り)を施したガラス。貝や石を用いた宝飾品のカメオに似た技法なのでこう呼ばれる。古代エジプトやローマのガラス、また中国の乾隆 ガラスにも見られる技法だが、近代ではアール・ヌーヴォーのガラスに多用された。彫り方は石やヤスリによる手彫り、ホィール・エングレーヴィング、アシッドなど多岐にわたる。

カリクリスタル kali crystal(カリガラス)
鉛を含まず、カリウムを主成分とするクリスタル・ガラス。16世紀末のボヘミアで開発されたブナの木やシダの灰を原料に用いるガラスで、17世紀以降近代までのボヘミアン・グラスに代表される。透明度と硬度が高く、グラヴュールに適しており、現代でもロブマイヤー、モーゼル、テレジアンタールなどのガラス器はカリクリスタル製。

被せガラス →色被せガラス

ギヤマン
江戸時代のガラスの呼称。語源については諸説あるが、オランダ語のディアマン(diamant ダイアモンド)を勘違いした上に発音を訛ったという説が一般的である。因みに当時のもう一つのガラスの呼称『ビードロ』は単純な吹きガラスを指し、『ギヤマン』は高級なカットガラスを指したという説もある。

キャスティング casting(鋳造)
鋳型に溶けたガラスを流し込んで充填し、徐冷して固める成型法。原型や鋳型の素材により、一点制作から量産まで、またコインのような物から彫像のような立体的な作品まで、幅広く多様な造形に用いられる技法である。


切子(きりこ) →カットガラス

クリスタル crystal glass(クリスタル・ガラス)
クリスタルは本来水晶を指すが、水晶のように輝く透明で高品質なガラスをクリスタル(正しくはクリスタル・ガラス)と呼ぶ。現代では一般に原料に酸化鉛を使った『鉛クリスタル』を指す。バカラ、サン・ルイ、スワロフスキーなどがクリスタル専門メーカーとして有名。

グラヴュール gravure →エングレーヴィング

グリザイユ grisaille
本来は黒の濃淡で描かれたモノトーンな絵画のことだが、白っぽいガラスの表面に黒っぽいエナメル彩で描かれた風景画などもグリザイユと呼ばれる。19世紀末のドームの作品に多く見られる。因みにグリザイユはフランス語で、grisはグレーを意味する。

乾隆(けんりゅう) ガラス Quianlong glass
中国清朝の乾隆帝(在位1735年~1796年)の時代に作られたガラス器の総称。この時期中国のガラス工芸が一気に発達し、最盛期にはアラビアやヨーロッパにまで手の込んだガラス器が輸出された。色被せに浮き彫りを施したいわゆるカメオ・ガラスが特に有名。エミール・ガレのカメオガラスも乾隆ガラスに影響を受けたと言われている。

虹彩ガラス →イリデッセンス

コア・ガラス core-formed glass(コア成形ガラス)
コアとは核とか芯を意味する英語で、金属棒を中心に粘土などで作った芯に溶けたガラスを巻きつけて成形し、固まった後で芯を抜く技法で作られたガラス器をコア・ガラスと呼ぶ。素地と異なる色ガラスを重ねて巻き付け、熱いうちにに尖った物で引っ掻いたりなどして模様を付ける(掻き上げ文、ネイルシーnailsea文)。古代メソポタミアで始められた最も古い技法であるが、改良や工夫が加えられて現代も用いられている。

ゴールド・サンドウィッチ gold sandwich glass
二重の透明ガラスの間に金箔を挟み込んだガラス器。ローマ時代に流行した技法だが、それを応用した18世紀のボヘミアン・グラスのゴブレットなどが特に知られている。ピッタリと重なる相似形のガラス器を作り、小さい方の表面に金箔を貼り付け、色々な絵柄を切り出して装飾したものを大きい方の中に重ね合わせ、接合部を溶着した特殊な二重ガラスで、幻の技法といわれ非常に珍重される。資料画像のように底部分に更にルビーを挟み込んだものもある。



2014年1月15日水曜日

アンティーク・ガラス用語豆辞典 《ア行》

パリは少し寒くなってきましたが、毎日雨ばかりでこの冬まだ一度も雪が降っていません。つまらないです。

今年はピアノに復帰することを決意、というほど大げさなものではないけれど、数日前より少し弾き始めました。
3年ほど前から右手の小指の第一関節が腫れて変形し、痛むのでピアノを休んでいたのですが、やっとこの頃ほとんど痛まなくなったので再開し、慣らし運転中です。
あまりに長い間弾かなかったせいで、得意の筈のレパートリーを弾こうとしても脳内では音楽を再生しているのに指が全然動いてくれない状態に『エェー?私ってピアノ弾けなかったんだっけ?』と疑ったほどでしたが、しどろもどろ触っているうちに縺れた糸が少しずつほどけていくように指が思い出していくのが不思議です。

もう一つの事始めとしては、アンティーク・ガラス豆百科の一環として用語集を編纂し始めたことです。
これがまた、簡単そうに思えたのに始めてみるとけっこう大変!完成してから公開するつもりでしたが、溜めておいて誤って消してしまったり(こうゆう愚行をやりがちな人ですから)しては悔しいので、出来次第UPすることにしました。
日本語表記のアイウエオ順で、まずは《ア行》を掲載します。画像は必ずしも典型という訳ではなく、一例としてご覧いただければと思います。

画像はクリックすると拡大でご覧になれます。

アイス・クラック  ice crack
吹きたての熱いガラスを水に一瞬入れて表面に氷が割れたような亀裂を作り、それを焼き戻し氷裂文を模様として残す技法。16世紀のヴェネチアンからアールデコ、現代の作品にも見られる加飾技法。

アシッド acide(エッチング・ 酸化腐食彫り)
acideとは酸のことだが、フランス語のgravure à l'acideグラヴュール・ア・ラ・(ア)シッド(酸によるグラヴュール)を略した用語。フランスのアール・ヌーヴォー、アール・デコの作家が多用した技法なので、このジャンルの作品について使われることが多い。フッ化水素酸と硫酸の混合液にガラスを浸し、酸で腐食させて表面を削ったり、荒らしたり、凹凸を付けたりする。彫らずに残す部分には酸に侵されないワックス系の保護膜を事前に塗布したり、全体に膜を塗布してから彫る部分を削り取ったりなどしてから酸に浸し、彫る深さに応じて浸す時間を調整する。銅版画の技法をガラスに応用したもので、エッチング、また日本語的に酸化腐食彫りともいう。

アンテルカレール intercalaire
挿入されたという意味のフランス語。透明もしくは半透明なガラスの層の間に色ガラス片やエナメル彩で描かれた模様をサンドウィッチのように挟み込んで溶着させ、表面から見た時に奥行を感じさせる装飾技法。Daumドームが特許を取得した技法で、最も芸術的で重要な作品に用いられた。


アプリカシオン application(アップリケ)
本体のガラスの表面に、溶けたガラスの小塊を色々な形に溶着する技法。貼付するという意味のフランス語で、日本ではアップリケともいう。

イリデッセンス iridescence(ラスター彩・虹彩)
元来はメソポタミアで陶器の釉薬として使われたラスター彩のガラスへの応用。金、銀、銅、鉄などの金属酸化物を熱いガラス素地に塗布し、ガラス表面に金属の薄い被膜を焼き付ける技法。焼成後のガラスは真珠母のような玉虫色の虹彩を放つ。ラスター彩、虹彩ともいう。ティファニー、レーツなどアール・ヌーヴォーのガラスに多用された。

色被せガラス(被せガラス・オーヴァーレイガラス)
素地になるガラスの上に異なる色のガラスやクリスタルを被(き)せて溶着した多層ガラス。2層から数層重ねたものまである。被せたガラスを部分的にカットやエッチングやグラヴュールで削り取り、他色や無色透明の層を露出させ、色や深さの対比を利用して表現する装飾技法。単に被せガラスともいう。またタイプが限られるがオーヴァーレイともいう。


インタリオ intaglio
陰刻、沈め彫り(または沈み彫り)された工芸品を意味するイタリア語。インタリオに対して浮き彫りされたものはカメオと呼ばれる。ガラスの場合、裏から陰刻されたものを表から見るとガラスの中に立体が封じ込められたように見える。陰刻の技法は手彫り、サンド・ブラスト、型押しなどがある。

ヴィトリフィカシオン vitrification
Daumドームが特許を取得した一種の簡易な色被せガラス技法。色ガラスの砕片や粉を溶解している吹きガラスの表面にまぶしつけ、それを再加熱して素地に一体化させる作業を繰り返し、多色を斑文状に重ねて微妙なニュアンスを作り出す。ドーム作品の多くは、この上に更にエッチングやグラヴュールで表面にレリーフ状の図柄をほどこしたり、アプリカシオンを加えたりしている。

ウラン・ガラス uranium glass(ヴァセリン・ガラス)
ガラスの原料に着色剤として極微量のウランを混ぜたもので、紫外線ランプ(ブラックライト)を照射すると緑色の蛍光を発する。自然光では薄い黄色から黄緑色、オレンジ色、ピンク色、水色などの透明から半透明のトロリとした色調のものが多い。中には不透明な加工をしたものもあるが、代表的なのは半透明な黄色で、このテクスチャーがヴァセリンクリームに似ているというので、アメリカではヴァセリン・ガラスとも呼ばれる。

エッチング etching →アシッド

エナメル彩(エマイユ)
ローマ時代に開発され、イスラム・ガラスで最高潮に達した加飾技法。色ガラスを粉砕して作った粉末顔料を溶き油で練り、ガラス器の表面に着彩し、低い温度で焼き付ける。顔料が溶けると同時に本体のガラス表面もかすかに溶けて両者が一体化するので、半永久的に剥落や変色しない絵付けができる。エナメル顔料には透明顔料、不透明顔料、ラスター顔料の他に金泥、銀泥や金、銀、プラチナの溶解液がある。ジャポニズム、アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラスにも多用された。エマイユ(フランス語)ともいう。


エングレーヴィング engraving(グラヴュール)
広い意味でガラスに彫刻を施すことを指すが、主にホィール・エングレーヴィングのことをいう。もともと水晶彫りに使われていた技法で、大きさや形状の異なる各種の銅円盤(グラインダー)を回転させてガラスの表面に図柄を彫刻する。グラインダーを使い分け、緻密で繊細な表現が可能。制作には高度な職人芸と時間を要する。グラヴュール(フランス語)ともいう。因みにホィール・エングレーヴィングはフランス語でグラヴュール・ア・ラ・ルーという。

オパルセント・グラス opalescent glass(オパレソン)
ガラス原料の中にリン酸塩、フッ素、酸化アルミニウム、灰、石灰などを混ぜ、成形時に急冷、再加熱をして得られる半透明な乳白ガラス。コバルトを加えて青を帯びたブルー・オパルセントが一般的だが、黄色やピンク色を帯びたものもある。多くの場合ガラスの肉厚部分が乳濁度が高く、薄い部分は透明度が高い。古くは1500年頃のヴェネツィアンガラスに既に見られるが、19世紀末から広く使われ出した技法で、1920~1930年代に最も多用された。オパールのようなという語源が示すように、光を透すと淡い虹彩を放つ。ルネ・ラリック、サビノ、エトリングなどの作品が特に知られている。

オパリーヌ opaline(オパリンガラス)
ガラス原料に色々な金属酸化物などを混ぜて作った半透明から不透明な色(白も含む)ガラス。16~17世紀のヴェネツィアンガラスに既に見られるが、一般にオパリーヌと呼ばれるのは19世紀以降のものを指す。1800年頃からフランスのバカラ、サン・ルイ、ル・クルゾの三大クリスタルリーが作り始めた『オパール色のクリスタル』が初期のオパリーヌとされる。発想は陶器や石を模倣したガラスで、オパールのような半透明で虹彩を帯びた白、白磁のような不透明な純白、トルコ石のような青、翡翠のような緑、紫陽花色と呼ばれた半透明なピンクなどで花瓶、宝石箱、香水瓶などの高級装飾品がオパリーヌ・クリスタルで作られた。19世紀半ばから世紀末にかけて一般化し、セミクリスタル製、ガラス製、型成形のものなどが量産された。オパルセントガラスと混同されがちだが、全く異なる。真っ白なものはミルクガラスともいう。

オーヴァーレイ overlay glass
広い意味では全ての被せガラスをオーヴァーレイ・グラスと呼べないこともないが、アンティーク・ガラスの世界では在るタイプの色被せガラスを指す。被せるガラスの層が厚く(主にオパリーヌ)、それにカットで窓を開けて透明と不透明、色のコントラストなどを目立たせ、多層ガラスであることを強調したリッチなスタイルの色被せガラスのことである。
19世紀の装飾的なボヘミアン・ガラスが典型的な例だが、19世紀後半のバカラやサン・ルイにも見られる。





2013年12月22日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その21-

クリスマスを目前に控えて天気が下り坂、今朝は灰色の世界です。
今年もノルマンディーでノエルを迎える予定なのに、天気予報では雨。
BOKUがこないだから前脚を痛めてやっと歩いているし…。憂鬱な日曜日です。

今年の2月から始めたアンティーク・ガラス豆百科が予想以上に長引いております。
ガラスの歴史だけでも年内に終らせようと頑張っていたのですが、やっと最終回に漕ぎ着けました。ずっと読んで下さった方(もしいらしたら)にはご迷惑をおかけ致しました。

【アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス】パット・ド・ヴェールの作家達

アールヌーヴォー、アールデコのガラスといえば忘れてならない(というより先ず頭に浮かぶ人が多いかも知れない)のがパット・ド・ヴェール作品です。
Pâte de verre パット・ド・ヴェールとは、本来ガラスのペースト、つまりガラスの練り物といった意味のフランス語です。
一般に、アールヌーヴォー期の不透明な色ガラス作品全般を指す呼称であるかのように誤解され、フランス本国のアンティック業界ですら誤用が定着している感がありますが、『パット・ド・ヴェール』とは一つの限定されたガラス工芸上の技法またはジャンルを指します。
色々な面倒なプロセスを要する手間のかかる技法で、アーティストによってそれぞれ秘法があったようですが、基本的には、色ガラスの粉末を糊で練って鋳型に充填し、型のまま焼き上げて中のガラスを溶解させて成形する技法ということになります。
古代メソポタミアで既に使われていた技法で、その後完全に廃れていたのが1880年代になってフランスの彫刻家アンリ・クロによって再発見もしくは再発明されたといわれます。
どのような形、色、模様でも自由自在に作ることができる上に、加熱されて溶け合ったガラスが自然に創り出す複雑で微妙な色彩やテクスチャーなどのニュアンスを想像しながらも、焼き上げて初めて得られるという偶然性など、陶芸や彫刻にも通ずる要素を持つこの技法は作家の創造力を掻き立てるものであったことと思います。
この時代のガラス工芸界の中で最も創造的で芸術的な作家および作品が生み出されたジャンルであるともいえましょう。

Henry CROS アンリ・クロ (1840-1907)
南仏のナルボンヌに生まれ、11歳から一家でパリに移り、パリ郊外のセーヴルで亡くなる。
親兄弟は学者、医者、発明家でありながら芸術家という非常に知的な家庭環境に育つ。パリの国立美術学校で彫刻と絵画をアカデミックな大家の下で学び、卒業後も自らの芸術を究めるために研鑽を積む。研究者肌な彼は、ルーブル美術館などで古代美術を研究しながら蝋を用いた着色彫刻を試行錯誤するうちに、2000年もの間忘れ去られていたパット・ド・ヴェール技法を再発見し、蝋より恒久的なこのガラスによる彫刻を創案するに至る。
1882年から試作を始め、1889年に公開された彼のパット・ド・ヴェール作品群は注目を浴び、非常な高評を得る。1892年からはセーヴル国立製磁工場に彼専用のアトリエと窯が提供され、ここで生涯創作活動に没頭し、数々の名作を残した。彼自身が名付けた『パット・ド・ヴェール』技法は多くの工芸家を触発し、一つのジャンルへと成長した。

Albert DAMMOUSE アルベール・ダムーズ(1848-1926)
彫刻家で陶磁器装飾家であったピエール・アドルフ・ダムーズの息子としてパリに生まれ、彫刻家および陶芸家としてセーヴルにアトリエを持ち、セーヴルに没す。
父のみならず画家であった弟も含めて陶芸一家として知られる。国立装飾美術学校と国立美術学校に学んだ後、彫刻家としてデビューする。1871年にセーブルに自分のアトリエを開き、死ぬまでこのアトリエで制作活動を続けた。
陶磁器の名窯POUYAT、HAVILANDや画家のブラックモンとのコラボレーションにより、数々の陶芸の名作を残し、一流の陶芸家として作品はオルセー他美術館に収蔵されている。
既に陶芸家として名を馳せていたダムーズがパット・ド・ヴェール作品を作り始めたのは1897年からで、1898年のサロン(展覧会)には動植物をモティーフにした繊細なガラス器を出品した。陶芸の技法を応用し、七宝に似たテクニックも駆使したダムーズ独自のガラス工芸は彼自身によってパット・デマイユと名付けられ、極薄の陶磁器を想わせる一方、陶磁器には出せないガラスならではの透明感のある色彩を有し、最も完成度の高いパット・ド・ヴェール作品と称賛される。1910年に発表された花形のクップなど、その精緻を極めた本物と見紛うほどの繊細なテクスチャーと造形、洗練された美しい色彩、完璧な表現力には驚くばかりである。

Georges DESPRET ジョルジュ・デプレ(1862-1952)
ベルギーの名家に生まれる。父は商工業界及び財界の重要人物であったが、彼は子供の頃から北フランスでガラス工場を経営する叔父に後継者として望まれ、迷わずその進路で準備を整え、叔父亡き後22歳で予定通り経営者となる。一族のパワフルな血を受け継ぎ、彼もまたエンジニア、研究者としてのみならず事業家としても腕をふるい、特殊ガラスを製作する大工場へと事業を大きく発展させ、父と同じように商工業界、財界のリーダー的存在となる。
事業や名誉職の傍ら、工場内に設けた自分のアトリエで、ローマ時代のパット・ド・ヴェールの秘密を研究し続け、アンリ・クロとほぼ同じ頃ついに技法を会得し、人物像などの作品を完成させる。彼は何人かの画家や彫刻家とのコラボレーションで多数のパット・ド・ヴェール作品を制作し、1900年のパリ万博にも作品を出品し、好評を博す。
二度の世界大戦中に彼の工場、アトリエ、彼の作品を収蔵していた美術館などが爆撃を受け、多くの作品が破壊されたため、同時代の他のガラスの大家ほどデプレの名は後世では知られていない、というよりも長いこと忘れられてさえいたが、卓越した技術とガラスをたっぷり使ったダイナミックな作品を残している。
清里北澤美術館(2012年に閉館)の入口に展示されていたラ・ヴァーグ(波)という素晴らしい大作は有名である。

Amalric WALTER アマルリック・ワルター(1870-1959)
セーヴルに生まれ、15歳から祖父や父が働いていたセーヴル国立製磁工場附属の陶芸学校に学ぶ。ここで陶芸の全ての技術や絵付けなどを実習した後、兵役を終えた1893年に正式にセーヴル陶磁器装飾家として雇われ、展覧会などにも出品し、成果を挙げる。
折しも同じセーヴルにアトリエを持つアンリ・クロがパット・ド・ヴェール作品で世の注目を浴びていた時代でもあり、ワルターもこの技法に興味を持ち研究を重ねる。
1903年に陶芸学校の師であったガブリエル・レヴィとの共同制作で初めてパット・ド・ヴェール作品をパリの美術展に出品する。これがアントナン・ドームの目に留まり、レヴィと共にナンシーのドーム社に招聘され1904年からドームの工場でパット・ド・ヴェール作品を専門に制作する。間もなくレヴィはドームを去るが、ワルターは1914年まで残り、ドームのチーフデザイナーであった画家アンリ・ベルジェ他のアーティストとの合作で多くの傑作を生んだ。
第一次大戦後、ドームから独立してナンシーに自分の工房を持ち、色々な画家や彫刻家の協力を得てパット・ド・ヴェール作品を制作し、これらは高級工芸品店で売られた。
彼の作品は粒子の細かいガラス粉を使った為良く溶けて滑らかな肌、色の美しさが際立っており、蟹、海老、カメレオン、カエル、小鳥、蝶などの小動物をテーマにした小品やタナグラなどの小彫像が多い。

François DECORCHEMONT フランソワ・デコルシュモン(1880-1971)
ノルマンディー地方のコンシュ・アン・ウッシュに生まれ、この地に没す。アーティストやアルチザンの家系で、父はパリの国立装飾美術学校の教師で彫刻家。彼自身も国立装飾美術学校に学んだ後、絵画、彫刻に才能を発揮する一方陶芸にも手を染める。陶芸に限界を感じ落ち込んでいた1902年頃、父の薦めもあってパット・ド・ヴェールの研究を始める。そしてついに彼は自分の目指す芸術を表現するための新しい手段を手に入れ、1903年からパット・ド・ヴェール作品を発表し始め、生涯にわたって技法の開発を研究しながら制作を続けた。
彼の作品を最も特徴づけたのは独自に開発した素材パット・ド・クリスタルである。また、蝋型鋳造、二度焼き、表面の研磨など様々なテクニックを独創し、これらを駆使して非常にオリジナルな作品を多数残した。
すぐれたデッサン力、芸術性、テクニックを持つ上に研究熱心な努力家であったデコルシュモンは、発想は勿論、素材作りから仕上げまで全て自分の手で行った稀有な作家の一人である。
昆虫などをモティーフとしたアール・ヌーヴォー的な作品から、典型的なアール・デコ作品、宗教的な題材のステンドグラスまで、幅広く、息の長い制作活動をした偉大なアーティストである。

Gabriel ARGY-ROUSSEAU ガブリエル・アルジー・ルソー(1885-1953)
シャルトルに近い小さな村メレ・ル・ヴィダムの農家に生まれ、パリに没す。田園風景などを描くのが得意な夢見がちな少年であったが、同時に化学や物理も好きで成績優秀な彼は、奨学金を得てパリのエコール・ブルゲ(現在の電子電気工学技術高等学院)に進学する。その後セーヴルの国立陶芸学校にも入学し、アンリ・クロの息子のジャン・クロ等を学友に陶芸技術を学ぶ。技術者としての資格を取得して卒業後、歯科用セラミックの製作所に勤めながらパット・ド・ヴェールの研究を個人的に進める。
1910年代には自分のアトリエを開き、1914年からG.ARGY-ROUSSEAUのサインでパット・ド・ヴェール作品を発表し始める。因みに彼の本名はJoseph-Gabriel ROUSSEAUであり、ARGYは1913年に結婚した妻の姓ARGYRIADESの頭4文字を取ったものである。第一次大戦中は電気関係の技術者、発明家として国の為に働き、いくつかの特許を取っているが、アーティストとしては休業せざるを得なかった。
終戦と同時にガラス作家としての活動を再開し、あらゆる展覧会に出品し名を挙げる。1921年には『Les Pâtes de verre d'Argy-Rousseau』という名で会社を設立し、50人もの職人を雇って量産し、事業は発展を遂げたが、1929年の大恐慌により倒産。その後細々と小さなアトリエで制作を続けるも1933年以降は作品の記録が皆無である。
彼のパット・ド・ヴェールは、エンジニアらしく色ガラスの粉末に金属酸化物を混ぜて発色させる手法で色調の幅が広く、光を透した時の色彩が特に美しく、ランプシェードなどに秀作が多い。彼の作品は、古代をテーマとしたモティーフが多く見られ、非常にデザイン的で典型的なアール・デコ様式でありながら、優しさ、素朴さ、可愛らしさがあり個性的である。

左から Walter 小物入れ『蟹』『ホップ』  Cros 花器『パストラル』  Décorchemont 花器『5匹のスカラベ』

Dammouse クップ2点  Argy-Rousseau 花器『パピルス』 Despret タナグラ『団扇を持つ女性像』

Décorchemont ステンドグラスのディテール (左)1933年 (右)1950年代

 

2013年10月12日土曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その20-

日本は夏に逆戻りしたような暑さだとか…。もう暑いのはウンザリという人も多いことでしょう。
パリは秋というより冬が来てしまったかのように寒いです。
我家では暖房を入れておりますし、散歩の時はダウンジャケットです。
秋は骨董市が多く、アンティック姉妹社Parisのスタッフ(私と夫)はお宝探しに出かけたり、発掘品をHP上にご紹介するための作業などで、けっこう忙しくしておりました。と、またブログをサボっていた言い訳を自分にしております。

【アール・デコのガラス】1910年代から1930年代まで 《フランスの主な作家達 Ⅱ》

Marcel GOUPY マルセル・グピー(1886-1954)
パリ国立装飾美術学校出身のグピーは絵画、陶芸、建築、彫金、そしてガラス装飾と何でもこなすマルチ・アーティストとして知られ、1919年からパリのオペラ通りに店を構える有名な高級工芸品を扱うギャラリーGEO ROUARDのお抱えアーティストとして、エナメル彩ガラス作品を発表し続け、1929年以降はこのギャラリーのアート・ディレクターを1954年(没年)まで務めた。
グピーのエナメル彩ガラスの特徴は、アールデコ的にデザイン化された絵柄や模様が美しい色彩でくっきりと鮮やかに施され、非常にスタイリッシュであることだ。こういった表現を可能にする技法も工夫されたのもので、焼き戻した時に色が流れないように金や煤でアウトラインを引いたり、表面のエナメルの色が混じることなく、しかも奥行を出すためにガラス器の内側からもアエログラフ(エアブラシ)でエナメル彩を施したり独自のテクニックが駆使されている。
早くから美術館に作品が買い上げられ、アールデコ期のガラス装飾家として第一人者と認められた作家だけに作品は高価で、あまり市場に出回らない。

Georges CHEVALIER ジョルジュ・シュヴァリエ(1894-1987)
パリ郊外のヴィトリー・シュル・セーヌに生まれる。パリ国立装飾美術学校在学中の1912年より先輩デザイナー、モーリス・デュフレーヌ(同学卒業者で後にギャラリー・ラファイエットのアートディレクターを務めた有名デザイナー)のアトリエに呼ばれ、ブルジョア階級の為のテキスタイル、絨毯、陶器、刺繍、室内装飾などのデザインをする。
シュヴァリエのエレガントで渋く、伝統を踏まえながらもモダンな感性はデュフレーヌの影響と見られる。
卒業後1916年よりバカラに入り、1970年代までの長期に渡り専属デザイナーとして活躍する。1925年のアール・デコ博の折には、ガラス製品のデザインのみならず、Baccarat Chritofleのパヴィリオンの外装、内装デザインも手がけた。
グラス類、花器、動物の彫刻、香水瓶、アクセサリーなど、あらゆるジャンルのバカラ製品をデザインし続け、バカラの伝統を守りつつモダニズムを反映させ、20世紀のバカラのフォルムや装飾スタイルを豊かにした功労者と称えられる。
シュヴァリエのデザインは、非常にアールデコ的でありながら無機質な感じが全くなく、優しく、夢があり、生命感が溢れ、音楽が感じられる。

Degué  (Cristallerie de Compiègne)  ドゥゲ(クリスタルリー・ド・コンピエーニュ)
ドゥゲ"Degué"はアーティストの名前ではなく、コンピエーニュ・クリスタル工場またはパリに籍を置くこの工場の工芸ガラス部門『ドゥゲ工芸ガラス』の社主David Guéronダヴィッド・ゲロン(トルコ出身 生没年不詳)の名前をもじったブランドネームである。
1926年から1939年まで存在したこのブランドは、今日なおアールデコ・ガラスの有名ブランドとして広く知られ、特に照明器具は人気が高い。
初期にはガレ風、ドーム風、シュネデール風な作品が多かったが、1928年に才能豊かな陶芸家Edouard CAZAUXをデザイナーに迎えてからはオリジナルな作品が作られ、Degué=CAZAUX と専門家の間では認識されている。
アールヌーヴォー色を残す鮮やかな色ガラス作品と、型でプレス成形された幾何学的なアールデコ作品とがあり、いずれも同じサインがされているが両者は全くキャラクターが異なる。

左から..Goupy 花器1920-25年・瓶1925年 Chevalier 香水瓶(Lubin社のl'océan bleu)1925年・キャラフとグラス『噴水』1925年(アールデコ博出品作) Degué プラフォニエ・パフュームランプ1930年代

アンティック姉妹社でご紹介中のDegué作品もご参照下さい。


2013年9月25日水曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その19-

【アール・デコのガラス】1910年代から1930年代まで 《フランスの主な作家達 Ⅰ》

簡単に纏める予定で始めたアンティーク・ガラス豆百科シリーズ、まだ完結しません。
締め切り期日がある訳でもなければ、催促する人がいる訳でもなく、勝手気ままに綴っているのでついノラリクラリしてしまいますが、久々に更新します。

アールデコのガラス作家として今も世界的な知名度を保っている代表的なアーティスト(ラリック以外の)を挙げてみると、奇しくも全てフランスの或いはフランスで活躍した作家ばかりです。(マニアックに、またもっと詳細かつ広範囲に語ろうとすれば勿論この限りではないのですが、ここでは私見的一般論にとどめたいと思います。)
これはアール・ヌーヴォーのガラスにおけるエミール・ガレの影響力のように、アール・デコにおいてはやはりルネ・ラリックの影響力が大きかったことを意味するのかも知れない、と愚考します。また、19世紀後半から20世紀初頭にかけての美術界全般において、フランスが世界の桧舞台であった事実も関係しているのかも知れません。

Maurice MARINOT モーリス・マリノ(1882-1960)
シャンパーニュ地方のトロワ(18世紀から近年まで繊維産業特にニット産業の中心地として有名)で代々繊維業を営む家庭に生まれる。19歳からパリの国立美術学校でフェルナン・コルモンに師事し絵画を学ぶが、あまりに個性的過ぎると師に見放される。1905年からアンデパンダン展やサロンドトンヌ展に絵画作品を出品し、フォーヴィズム(野獣派)の画家として知られるようになるが、1911年にパリ郊外にあった友人のガラス作家ヴィアール兄弟の工房を訪ねて以来、ガラス工芸の魅力に取り憑かれ、1912年(30歳)よりガラスの研究、技術の習得、ガラス作品の制作に専念する。
1913年には既にガラス作家として個展が開かれ、その後コンスタントに作品の制作、発表を続け、ガラス作家としての名声を築くが、1937年にそれまでアトリエを提供し、協力をしてくれたヴィアール兄弟が工房を閉めたのと同時に彼自身の体力も尽き、病を得てガラス作家を廃業する。故郷に帰り、絵を描きながら晩年を過ごしたが、モーリス・マリノの名は画家としてよりもガラス作家として今も輝き続けている。
初期の作品は薄手のガラスにエナメル彩を施した絵画的なものが多いが、1923年以降は分厚いガラスに大胆なカットやエッチングを施したり、無数の気泡をガラスの中に閉じ込めたりした彫刻的で独創的な作品が多い。ラリック作品とは対照的に、一点一点作家自身の手で創り出されたガラスの芸術作品であるだけに、稀少で滅多に市場に出回ることは無い。アール・デコの作家というより現代作家の作品のような新しさが感じられる個性派のガラスである。

Marius SABINO マリウス・サビノ (1878-1961)
シチリア島(イタリア)に生まれ、4歳の時に一家でパリに移住する。彫刻家であった父の勧めでパリの装飾美術学校及び美術学校で学んだ後、普及し始めた電気の光に魅せられ、照明器具の製作を始める。1920年頃或るガラス作家と共同でパリ郊外にガラスを用いた照明器具の工場を設立し、パリのマレー地区に大きな店も構える。1925年にパリで開催されたアール・デコ展(装飾美術と近代産業美術万国博覧会の略称)に出展し、シャンデリア類が大好評を博す。これを機に豪華客船やペルシャ王宮などの装飾照明を受注したり、海外に販売店を多数持つなど国際的に事業を発展させた。
照明の他に、型による花器や置物などガラスの装飾品も数多く手がけ、これらは大量生産された。1925年からはこうした小物類をオパルセントグラスで作り、サビノといえばオパルセントグラスと現在一般的に認識されているほど主要な商品となる。彼は1939年まであらゆる展示会や展覧会に出品し続け、精力的に活動を展開し、成功を収めたが、第二次大戦後は健康を害し、養子である甥に全てを引き継いで引退する。
彼の死後、全ての作品がアメリカに輸出され、1978年にはアメリカの代理業者がサビノ社の権利や製造設備を丸ごと買い取り、往時の型を使い現在なおSABINOガラスの制作販売を続けている。

Frères SCHNEIDER シュネデール兄弟 (エルネスト1877-1937 シャルル1881-1953)
日本ではドイツ式にシュナイダーと発音されることが多いようだが、彼らはれっきとしたフランス生まれのフランス人で、ナンシーで育った。兄弟はDAUMガラス工場で働きながら、美術の基礎およびガラス工芸の技術や、工場運営のノウハウを習得した後、独立してパリ郊外のエピネー・シュル・セーヌに小さなガラス工房を開く。ドーム兄弟にその才能を見い出され期待と支援を一身に受けた天才的なアーティストであるシャルルと、経営者的能力をドーム兄弟に買われて管理職を任されていたエルネストの最強コンビだけに、めきめきと頭角を表し、1926年-1930年には500人もの職人を抱えるフランス第一の工芸ガラス工場へと発展させる。不況や戦争、事故などで事業は破綻と復興を重ねながらシャルルの息子達の代まで続き、1981年に完全に閉鎖する。
シュネデールの工芸ガラスの特徴は鮮やかで豊かな色彩と造形のオリジナリティ、金属とのコンビネーションなど他に類を見ない個性と完成度の高さにある。幾何学的な図柄がアシッドでグラヴュールされた作品にはLe Verre Français ル・ヴェール・フランセ、またはCharder シャルデール、 またはその両方のサインが見られる。

(左から)Marinot エナメル彩蓋付花器1912年 ・気泡入りカットガラスのフラコン1930年 Sabino シャンデリア1931年・
タナグラ1930年 (上から)Schneider 鍛鉄足付きクップ・ビジュー1918-23年・アシッドグラヴュールの花器1927-28年

2013年8月3日土曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その18-

【アール・デコのガラス】1910年代から1930年代まで 《ラリックのガラス》

『アール・デコ』という時代様式を表す言葉が生まれ,様式が定着したのは1925年以降なのですが、1910年代に既にこのスタイルの基本的なコンセプトと実例が表れ始め、1920~30年代に世の隅々まで普及し、1940年代に終焉したいわば二つの世界大戦の狭間に世界中に自然発生した様式であり、流行だったのです。
工芸ガラスの世界もこの時期大きな転換期を迎えました。アール・ヌーヴォーのガラスは、その様式特有の耽美性、自然に倣った写実性から必然的に1点1点手作業される部分が多かった訳ですが、アール・デコの場合はよりシンプルで無機質なデザイン性から、作業が機械化され合理化されて量産が可能になったのです。工芸ガラスといえども『工』の比重が『芸』よりも重くなったとも言えましょう。
一方で一品一作主義を貫き、『芸』に徹した作家もいたのですが、目指す方向や方法こそ違え、いずれの場合も造形的また美学的には共通したコンセプトが見られます。すなわち、シンプルでシンメトリックなライン、デザイン化(図案化)された装飾、モノトーンもしくはコントラストのはっきりした色使いなど、それまでのガラスとは全く性格が違います。
また、この時代には電気が普及した為、工芸ガラスに照明器具という新たなジャンルが加わりました。
(アール・デコに関する私の過去のブログもご参照下さい。)

René LALIQUE ルネ・ラリック (1860-1945)
フランスのシャンパーニュ地方のAy(アイ村)に生まれ、パリで育つ。中学校で絵を学び始め才能を発揮するが、ワインの仲買人であった父が亡くなったため学業を続けることができなくなり、16歳でパリの宝飾職人のアトリエに見習いに入る。働きながら装飾美術学校の夜学に通う。18歳から2年間ロンドンの美術学校に留学し、宝飾デザインの腕を磨くためデッサンを専門的に学び、装飾美術のコンクールなどで受賞。帰国後宝飾デザイナーとしていくつかの有名宝飾店やアトリエからの受注でデザインをするかたわら、彫刻やエッチングなどを専門家に師事して学び、自ら宝飾家になるべく研鑽を積む。1886年頃から本格的に宝飾家として工房を運営し、制作活動を始める。
1890年代からはそれまでの金や貴石重視のクラシックなジュエリーの観念を打ち破り、銀、七宝、象牙、色ガラス、パット・ド・ヴェールなどを用いたデザイン重視の斬新なアールヌーヴォー作品が注目され、各界の名士(石油王グルベンキアンや大女優サラ・ベルナールなど)を顧客に得て発展を続ける。
1900年のパリ万博ではグラン・プリに輝き、国際的評価が高まり、各国の美術館が競って作品を買い上げるなど名声を極め、ヴァンドーム広場に店を構える超一流宝飾家にまで登りつめる。
宝飾家としての絶頂期は同時にアール・ヌーヴォーの全盛期であり、アール・ヌーヴォーが衰退の兆しを見せ始めると、ラリックの耽美的で芸術的なジュエリーもまた次第に時代の嗜好に合わなくなっていった。『実用に適さない』、『不愉快なデカダンス』などの批判の声も聞こえたが、ラリックは飽くまでもアール・ヌーヴォーのジュエリー作家であった。時代に合わせて自らの美意識を曲げてまでジュエリーを作ることを拒み、ガラス作家への転身を決意する。

1912年(52歳)最後の宝飾展をヴァンドーム広場の店で催し、以後ガラスに専念する。
宝飾家時代に既にガラスを宝石と同等もしくはそれ以上に美しく見せるジュエリーを作ったほどガラスに習熟していたラリックが、ガラス作家として成功したのは当然ともいえる。
1913年にはそれまで借りていたガラス工場を買収して本格的な量産体制を敷き、高品質な量産品を作るための特殊な製法を考案し、機械を使った型押し成形や型吹き成形などによる新製品の開発をし、事業は好調に滑り出す。1914年~1918年第一次大戦のため操業は一時停止するが、戦後は新時代の動向を察知し、パリ近郊の工場を拡張する他アルザス地方に最新設備の新工場を作るなど更なる工業化への道を邁進する。こうしてラリックはアーティストであり続けながらも、立派な産業人となっていった。
1920年代後半から1930年代には後にモニュメントとなるクラスの数々の建築物、客船、列車などの内装や照明なども請け負い、ラリックのガラス作家としての名声は世界を馳せた。
作品の特徴は、アール・ヌーヴォー的な優美で写実的な面を残したものも見られるが、多くは大胆な彫刻的立体感を持ち、デザイン的で極度に洗練されたアール・デコである。
モティーフは動物、植物、神話的人物、幾何学的な連続模様など。ガラス自体は無色が最も多く、次にオパルセント(青、アンバー)、わずかに単色(赤、青、緑、アンバー、紫など)色ガラス。型押し、型吹き成形がほとんどだが、少数のシール・ペルデュ(蝋型鋳造)による一点作品もある。成形後の加飾方としては、クリアとフロストのコンビネーション、部分的なパティネやエナメル彩など。品目は香水瓶、花器、食器、照明器具、オブジェダール、装身具、カー・マスコット、インテリア建材まで多岐に及ぶ。
一見してラリックと認識できるような個性的な作品が多いが、それだけに当時より模倣も多くされ、ラリック風な他社製ガラスは限りなくあり、現代ではコピーも存在する。
1945年に亡くなる直前までリューマチで痛む身体で制作を続けた。没後は息子のマルク、孫娘のマリー・クロードとラリック社は家族によって維持されたが、2008年からはスイスの会社が経営し、現在に至る。

アール・ヌーヴォーとアール・デコという相反する装飾美術史上の二つの時代を、宝飾とガラス工芸という二つの異なる舞台で共にスターとして生きた、一人で丸々二人分の美の巨匠だけに、紹介が長くなってしまいました。

約300種に及ぶ花器より 左から (上) 1924年   (下)バッタ 1912年   (上)ダイオウ(シール・ペルデュ作品) 1913年   
 (下)渦巻き 1930年 12の立像 1920年 (上)ブシャルドン 1926年 (中)ロワイヤ 1936年 (下)瓢箪 1914年               

左から (上)皿 1931年 (下)小像 タイス 1925年 ランプ ボケ 1920年 キャラフ 人魚と蛙 1911年 (上)吊灯 コキーユ 1921年 (下)フラコン ダリア 1931年 (下)ラジエーターキャップ(カー・マスコット) 勝利 1928年 香水瓶 ユーカリ 1919年 

(左) オリエント急行コートダジュール号の内装 1928年 (右)豪華客船ノルマンディー号の食堂(1stクラス)の照明 1935年

(左)フランス、ノルマンディー地方のドゥーヴル・ラ・デリヴランドの町のシャペルヴィエルジュ・フィデルの内装と十字架 1931年 (中央)旧朝香宮邸の玄関扉(現東京都庭園美術館) 1932年  
(右)パリのショッピング・アーケードギャルリー・デ・シャンゼリゼの照明 1926年

ラリック作品は美術館級の逸品やモニュメント指定されている建造物から、我々庶民でも入手可能な実用品や装飾品まで実に幅広いことも特徴のひとつです。アンティック姉妹社のラリックのページもご参照下さい。

2013年7月10日水曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その17-

パリも少しだけ暑くなってまいりました。
或る程度気温が上がってくれないことには、畑の野菜が育たなくて困るのです。
ご近所でも評判の、日本の種で作る我家のキュウリが無いと、夏は過ごせません。
暑いのは苦手だけれど、寒い夏というのもなんだか寂しいです。
な~んて言っていると、突然ドカーンと猛暑が来たりして、恥をかく羽目になりかねませんから、もう苦情は申しません。それこそ天任せ、成るように成れ、ケ・セラ・セラです。
と、ここまでは実は3日前の話でして…
来ました!やっぱり。猛暑というほどではありませんが30℃級の暑さが。でも風があるし、カラリとして気持ち良いです。

さて、久々に(6月は1話も書いてなかった!)ガラスのお話の続き、いってみたいと思います。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで  《欧米諸国の作家達》

Louis Comfort TIFFANY ルイス・コンフォート・ティファニー  (1848-1933)アメリカ
世界的に有名なニューヨークの宝飾店ティファニーの経営者の息子として生まれる。家業の宝飾店の経営に関わることを拒み、自ら芸術家として生きる道を選び、複数の画家に師事し、欧米各地に遊学しながら絵画を学ぶ。
絵画、室内装飾、ガラス工芸、宝飾デザイン、その他アートディレクターとしてあらゆる装飾芸術に通じ、潤沢な資金源をバックに自らの工房ティファニー・スタジオ(1885-1928)を主催したアメリカを代表するアール・ヌーヴォーの作家である。
その幅広い創作活動の中で最も重要な部分を占めるガラス工芸は特に異彩を放って世の注目を集め、ガラス工芸史および装飾美術史上にも大きく名を残した。
主要作品としては、絵画的で色彩豊かなステンドグラスやこれを応用したランプ類、ティファニー自らファヴリル・グラスと名付けた玉虫色に輝くラスター彩(虹彩)ガラスの器や花瓶、ランプシェードなどがある。 
『ファヴリル』の語源は"手作りされた唯一無二のもの"を表す古い英語で、ティファニーのガラス作品への思いが込められている。しかし皮肉にも、彼の手法とスタイルは多くのコピーを生み、ティファニー・グラスやティファニー・ランプとまで総称される一つのジャンルを成した感がある。いわば『アメリカのガレ』的な巨人であることの証しと言うべきか。

ルイス・コンフォート・ティファニーの作品

Thomas and George WOODALL ウッダル兄弟(1849-1926 1850-1925)イギリス
トーマスとジョージの兄弟は芸術的才能豊かな家庭に生まれ、早くから音楽や美術に親しみ、地元のストアブリッジ美術学校でガラス工芸をジョン・ノースウッド(1836-1902 ローマ時代のガラスの名器『ポートランドの壷』の複製を完成させたことで有名なガラス作家。イングリッシュ・カメオ・グラスの父的存在)に学ぶ。Thomas Webb & Sons社に所属し、
師の技術やスタイルを継承したネオ・クラシックなカメオ作品の秀作を多数残した。

Ludwig MOSER ルードヴィッヒ・モーゼル(1833-1916)ボヘミア 1918年までオーストリア 現チェコ共和国
カルロヴィ・ヴァリ(独名カールスバート)に生まれ、少年時代にウィーンや地元の工芸学校に少し通った後、地元の有名なガラス彫り師の工房に見習いに入る。
1857年に独立してガラスの加飾工房と店を立ち上げる。当初は需要の多かった鏡やシャンデリアを主に制作販売していたが、やがて高級テーブルウェアを手掛け、ヨーゼフ・ホフマン、ルドルフ・ヒレルなどの名工達の協力を得てウィーンやパリの展覧会などで数々の受賞に輝き、1904年以降オーストリア王室や英国エドワード7世の御用達をつとめるまでに至る。一貫してカリ・クリスタルの透明生地にカットやグラヴュールを施したガラス器をメインとしたが、アール・ヌーヴォー期にはエナメル彩や金彩、また淡い色被せガラスにレリーフカットを施した作品を作った。
『王者達のガラス、ガラスの王者』をスローガンにモーゼル・クリスタルは健在である。
カリ・クリスタルについての稿(アンティークガラス・豆百科-その3-)もご参照ください。

Val Saint-Lambert ヴァル・サン・ランベール(1825~現在)ベルギー
1825年創業のベルギーが世界に誇るクリスタル・メーカー。リエージュの傍のヴァル・サン・ランベール修道院跡に5つのガラスメーカーのグループによって創立された工場は、時の国王達のバックアップを得て急速に成長し、20世紀初頭には5000人もの従業員を抱える巨大企業となり一時は世界一のガラスメーカーであった。2度の世界大戦や世界恐慌の影響で傾き、1970年代になって復興し現代に至る。ベルギーはフランスに劣らずアール・ヌーヴォー運動が盛んな国であっただけに、この会社のアール・ヌーヴォー期の作品は多彩で充実している。
1897年から38年間チーフデザイナーを務めたLéon LEDRUは1855年パリに生まれ、1888年にこの会社に入るまではフランスのセーヴル・クリスタル工場で働いていた人で、彼の持つ明るい人格とクリエイティヴで現代的なセンスが、Val St-Lambertのコレクションを豊かにしたといわれる。1905年から3年間、ナンシーのMULLER兄弟が招聘され、DAUM風な作品をと乞われて500種ものモデルを制作したことも忘れてはならない。MULLERについての稿(アンティーク・ガラス豆百科-その12-)もご参照ください。

Karl KÖPPING カール・ケッピング(1848-1914)ドイツ
ドレスデンとミュンヘンで化学を学んだ後、ミュンヘンの美術学校およびパリで絵画を学び、アカデミックな銅版画家として活躍する。日本美術品の蒐集を始めてよりアールヌーヴォーに目覚め、植物的な繊細な美をガラスで表現したいと思い立ち、ガラス工芸を手がける。優秀なガラス技術者の協力を得て実現された作品は、危ういまでに繊細で美しく、風に揺れる可憐な花のようにはかなげなグラスなど、非常に個性的で芸術性が高い。

Johann LOETZ Witwe レーツ(1848-1940)ボヘミア 1918年までオーストリア 現チェコ共和国
1838年に設立されたガラス工場を1848年にスザンヌ・レーツ(ヨハン・レーツ未亡人)が引継ぎ、『ヨハン・レーツ未亡人(Witwe)ガラス工場』という社名で再創業。1879年からはレーツの孫にあたるMax Ritter von Spaunマックス・リッター・フォン・シュパウン(1852-1909)が受け継ぎ、大いに発展させた。社名を変えなかったのでレーツで通っているが、実はシュパウンこそがこのガラス・メーカーを世に知らしめた立役者なのである。
彼は優秀な後術者をディレクターとして迎え入れ、自らは創作に専念し、次々と意欲的な新作を創り出しては展覧会に出品し受賞を重ねた。1895年にはレーツのガラスを最も特徴付けたラスター彩(メタリックな虹彩)ガラスの特許を得ている。ティファニーの『ファヴリル・グラス』のようにシュパウンはこれを『フェノメーン・グラス』と名づけた。1900年のパリ万博で、ガレ、ドーム兄弟、ロブマイヤー、ティファニーと並んでグラン・プリを受賞している。余談だが、ガレはこの時の受賞に関して『コピーがオリジナルと一緒に受賞するなんて…云々』とティファニーとレーツを引き合いに、ドーム兄弟が自分と並んで受賞したことを苦々しげに知人への手紙に書いたといわれる。しかし、ティファニーとレーツのラスター彩ガラスに関しては、特許も発表もほぼ同時期であり、コピー説は頷けない。

左からウッダル兄弟(上)、 トーマス・ウェッブ&サンズ(下)、モーゼル、ヴァル・サン・ランベール、ケッピング、レーツ




2013年5月31日金曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その16-

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《パリ派 Ⅲ》

LEGRAS & Cie  ルグラ社(1870年代~1920年代)
フランソワ‐テオドール・ルグラ(1839-1916)はヴォージュ地方の森の中の小さな村で木こりの子として生まれ、20歳から3年間地元のガラス工場で働いた後、パリに出て郊外のサン・ドニのガラス工場に下級従業員として雇われる。ガラス職人としてのキャリアも足りず、学歴も財産も無かったルグラ青年は自らの才覚と努力だけで見る見る頭角を表し、あっという間にこのガラス工場の経営者にまでなり、雇われた当初従業員70人程度だった中小ガラス工場を1880年代には1500人もの従業員を抱える大企業にし、社会的にもレジオン・ドヌール勲章を授与される程の名士となった立志伝中の人物である。故郷から呼び寄せた甥のシャルルとテオドールにガラスの技法や化学を学問的に修得させて事業に実践させ、後継者に仕立て上げた。彼等の技術は万博などでの数々の受賞や特許を得、ルグラの名を世界に知らしめた。
ルグラの製品および作品は多岐に渡り、酒、薬、香水などのメーカーからの発注による商業用容器類から家庭用の実用ガラス器、照明、高級工芸品まで実に幅広い。
技法的にも多種多様を極めるが、最も特徴的で他に抜きん出ているのはエナメル彩の技法と、各種色ガラス素地の発色の美しさであろう。サインの無い作品が多く、また作品の種類や時代によってサインが変わるため、『ルグラ』の名前は現代では往時ほど有名ではなく、サインが無いものは『サン・ドニ』とか『パンタン』などと大雑把に地名で呼ばれることが多かった。つい10年ほど前から急に研究や分析がし直され、同時に作品も見直されるようになり『ルグラ』のアンデンティティーも価値も再認識されるようになったのである。
それまで別の工房のように思われがちだった『MONTJOYEモンジョワ』や『INDIANAインディアナ』のサインのあるアーティスティックな作品も今では漸くルグラと知られるようになり、著名な鑑定家でさえオークションで『PANTINパンタン』と片付けていたエナメル彩作品もきちんと特定されつつある。

Cristallerie de PANTIN パンタン・クリスタル工場(1851-1914~1918)
元々はMonotというリヨンのクリスタル工場出身の職人が1851年に隣町ヴィレットに興し、間もなくパンタンに移した小さな工場であったが、1876年以降次々と加わった3人の共同経営者によって工場は大きくなり、Monot引退後1886年頃から社名をStumpf, Touvier, Viollet & Cieと改め、第一次世界大戦の頃まで繁栄が続いた。(その後ルグラ社に吸収合併されたという説が最近まで信じられていたが誤りで、ルグラが吸収したのはPantinにあった別の工場であった)
"Cristallerie de Pantin"または上記3人の名前のイニシアル"STV"をモノグラムにしたマークがサインされた作品は19世紀末~20世紀初頭のもので、控えめな虹彩ガラスに色被せしアシッドでレリーフしたものやエナメル彩と金彩で花絵が描かれたものが多い。1907年頃にアーティスティック・ディレクターとして入ったDe Varreuxが導入および監修した一連の絵画的なカメオ作品には"de Vez"ドゥヴェーズとサインされている。1910年にミュゼ・ガリエラに展示されたこれらの作品は、その技術の高さ、新しさを専門家に絶賛されたという。

このように1800年代後半から1900年代初頭には、パリの北に接する郊外の街パンタン、サン・ドニ、クリシーなどに大小のガラス・クリスタル工場がたくさん存在し、互いに切磋琢磨してパリ派のガラスを大いに発展させたのです。

(左手前)ルグラ"INDIANA"シリーズ (左奥)ルグラ"RUBIS"シリーズ  ルグラ"MONTJOYE"シリーズ
パンタン"フクシア文虹彩カメオガラス"シリーズ  パンタン"de Vez"シリーズ

2013年5月26日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その15-

ちっとも天気が回復しません。
昨日の朝は5℃、日中でも8℃という寒さに加え、時折雨風も吹き荒れて最悪でした。
おまけに注文したガラスのシェードが粉々になって届き、気分も真っ黒に荒れ模様。
今朝も灰色の雲が空を覆っているけれど、なぜか晴れ間が見えて来そうな予感がして、心の気圧計も上昇中です。

と、書いたのは昨日の早朝だったのですが、私の予感が的中して午後から天気も気分も晴れました!

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《パリ派 Ⅱ》

Philippe BROCARD フィリップ・ブロカール (1831-1896)
パリ派のガラス作家の中で最も早くから、最も特異な作品を世に送り出したアーティスト。
彼は古美術品の修復を職業としていたが、或る時パリのクリュニー美術館で見たモスク・ランプに魅せられ、自らイスラム・ガラスの蒐集と技法の研究、制作に励む。試行錯誤を繰り返した末、ついに完璧にイスラム式エナメル彩ガラスの技法を独力でマスターし、1867年には万博に初出品を果たす。その後もエナメル彩ガラスの第一人者として数々の展覧会で受賞を重ねる。彼の作品は、模様を縁取りし厳密に色止めされた精緻な多色エナメル彩で素地を覆い尽くした豪華絢爛たるもので非常に美しく、13~15世紀の『イスラムの華』と称された本物のイスラム・ガラスの名品に優るとも劣らない完成度の高いものと評される。フランスの国立美術館はもとより大英博物館やコーニング・ガラス美術館にも所蔵されている。

Frères PANNIER パニエ兄弟 (1853-1935/1944)
ジョルジュとアンリのパニエ兄弟の名前を知る人は少なく、"Escalier de Cristal"エスカリエ・ド・クリスタル(クリスタルの階段)という彼等の店の名前の方が有名である。パリのオペラ座界隈に1802年から1923年まで続いた高級工芸品店で、陶磁器、クリスタル、ブロンズなどを扱い、各国の王室や有名人を顧客に持つパリのエレガンスとリュックスの象徴のような店だったという。
オーナーは何度か変わり、パニエ兄弟は1890年~1923年最後のオーナーとなった訳だが、彼等のジャポニズムとアールヌーヴォー趣味に徹した品揃えはエミール・ガレをして『恒久的展覧会』と言わしめるほどのものであったようだ。
バカラ、ガレ、ティファニー、マジョレルなど当時の一流どころに特注した品を更に彼等のアトリエで加飾し、店のサインを入れてオリジナル商品としたが、それに飽き足らず、彼等自身がデザインをしてクリシーのアペール兄弟のガラス工房で作らせたガラス作品もいくつかある。作品や商品の特徴は、ガラスやクリスタルの花瓶に鍍金したブロンズの装飾や台座を付けたリッチなジャポニズムである。

Amédée de (duc) CARANZA アメデ・ド・カランザ  (1843-1914)
トルコのイスタンブールに生まれ、若くしてフランスに渡る。音楽家、画家、陶芸家、ガラス作家というマルチ・アーティスト。ロレーヌ地方のロンウィやボルドー、南仏などで陶芸の仕事をした後、1890年から1914年頃までピカルディーのノワイヨンという町で工芸ガラス作家兼音楽家として暮らす。第一次世界大戦中に消息を絶つ。作風は非常に装飾的で、陶芸の技法を取り入れた銀彩、虹彩ガラスが多く、スタイルはジャポニズムからアールヌーヴォー、時にアールデコ的なものまである。作品は各国の美術館に所蔵されているが、市場に出回ることは滅多にない。

Auguste JEAN オギュスト・ジャン (1829~1896)
もともと陶芸家であったが1870年代の初め頃からガラス作家として活躍する。作品はクリスタルリー・ド・クリシーにて制作され、1885年にこの工場がクリスタルリー・ド・セーヴルに買収されたのと同時に彼は工芸ガラス界を去り、その後の消息は不明である。作品は宙吹きした色クリスタルを飴細工のようにデフォルメしたりアプリカシオンしたりして成型した器にジャポニズムなエナメル彩の絵付けを施したものが多く、自由奔放で奇抜なフォルムは人を瞠目させた。セーヴルやルグラに彼の作風を模倣したものが見られる。

フィリップ・ブロカール1870年頃 パニエ兄弟1890年 アメデ・ド・カランザ1900年頃 オギュスト・ジャン1880~1890年

画像はオルセー美術館、liveauctioneers.com/などのサイトより拝借しました。

2013年5月24日金曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その14-

実に丸々2週間もブログの投稿をさぼってしまいました。
その間に、私を取り巻く小宇宙がどのように変わったかといいますと、まず美しい筈の五月が梅雨かと思えるほど天気が悪く、おまけに薄ら寒いグレーな五月と化してしまいました。
そしてリラの季節が過ぎ去り、薔薇の季節が始まろうとしています。
五月の大事なイヴェント、バスティーユの春の骨董市があり、開催前日と最終日の前日の2回宝探しに出かけました。
友人のお腹の中に入っていた時から知っている女の子が、出産してお母さんになったというニュースに驚嘆し、時の流れをしみじみ実感しました。
姉妹社ショップに新着品をUPしました。お客様の反応が今ひとつで、空模様と同じくちょっと気分が薄曇りです。
でも、お天気といっしょで明日は晴れるかも、って私は結局『お天気屋』?
以上、この2週間のダイジェストでした。

長らく中断しておりましたガラス豆百科、再開いたします。
まだアール・ヌーヴォーの続きです。しつっこいですねぇ、全く。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《パリ派 Ⅰ》
ナンシーより少し早く、1870年頃からアールヌーヴォーの兆しが表れ始めたパリ派のガラス工芸の最大の特徴は、ジャポニズムにあるといえましょう。ナンシー派におけるガレのように、その流れを創り、牽引したのはウジェーヌ・ルソーといわれています。
19世紀後半から20世紀前半にかけてパリ(郊外)には多くのガラス工場が軒を並べ、ガラス工芸が大いに発展しました。日本ではナンシー派に比べてあまり知られていないようですが、パリ派の工芸ガラスは欧米では人気があります。最近は関連の書物も続々出版され、とみに脚光を浴びている感があり、広く再認識されて値段もどんどん上がっております。
そんなパリ派のガラス作家(及びメーカー)とその作品をご紹介したいと思います。

Eugène ROUSSEAU ウジェーヌ・ルソー (1827-1890)
パリ派の代表的ガラス作家として知られているが、彼は広い意味でのクリエイターであってガラス工芸家でも製造者でもなかった。パリで陶磁器やクリスタルの卸売業を営んていた父を手伝い、後を継いだ経営者であったが、早くから日本美術に着目し、フェリックス・ブラックモンに北斎漫画をテーマにしたテーブルウェア(陶器)のシリーズを発注したりなど、オリジナルなジャポニズム(日本趣味)商品を企画開発し、ブランドを確立するに至る。自らもデザインや技法の研究に手を染めたが、実際のガラス制作はクリシーにガラス工房を持つアペール兄弟および優秀な彫師ウジェーヌ・ミッシェル、ジョルジュ・レイエン等によって実践された。
1885年からは友人で弟子でもあったエルネスト・レヴェイエが共同経営者となり、二人の名前で造られた作品は万博で受賞したり、国内外の美術館に買上げられたり当時より高く評価された。
ジャポニズムをはじめとする東洋美術にインスパイアされた造形と装飾、乾隆ガラスを真似たカメオ彫りや模玉ガラスの技法を取り入れた彼等の作品は、斬新でそれまでのヴェネチアンやボヘミアンのスタイルを踏襲していたに過ぎないフランスのガラス工芸界を大いに刺激し、流れを変えたといっても過言ではない。

Ernest LEVEILLE エルネスト・レヴェイエ (1841-1913)
1869年よりパリのオスマン通りに自分の店を構え、陶磁器やクリスタルの販売業を営んでいたが、1885年よりウジェーヌ・ルソーの共同経営者および共同制作者となり、1890年よりルソーの後継者として活躍。作風は初期には師のルソーに倣った硬い感じのものであったが、1890年以降は流行を反映して徐々にデフォルメされ、曲線的になり、華やかさを増したものへと変わっていった。

Eugène MICHEL ウジェーヌ・ミッシェル (1848-?)
ナンシーの傍のリュネヴィルでクリスタルのカットやグラヴュールをする職人だった父の子として生まれる。ウジェーヌ・ルソーに才能を見出され、1867年(19歳)からルソーのために、ルソー引退後はレヴェイエのために彫師として働く。その後パリで独立するも1914-1918年の大戦中に消息を絶つ。卓越したテクニックの持主で、カメオ・ガラスの制作に名人芸を発揮する。作風は師のルソーのジャポニズムを継承しながらも、独自の繊細な技術や感性を生かした花のモティーフなどの自然派作品が多い。ルソーとガレ双方の感性を併せ持つ作家と看做されている。

Georges REYEN ジョルジュ・レイエン (生没年不明)
1870年頃にはステンドグラスの彩色と彫刻をしていたが、その後エミール・ガレの為に彫師として働く。1877年頃ウジェーヌ・ルソーに注目され、彼の最も優秀な協力者として制作にたずさわる。作品はルソーによって触発されたジャポニズムとステンドグラス作家としての感覚を見事に融合させた非常にアーティスティックで、独創的なテクニックを駆使したものであった。最もオリジナリティを持った作家のひとりと評価されている。

ウジェーヌ・ミッシェル" 水仙"1900年頃、ジョルジュ・レイエン"野の草"1894年

以上、パリ派の核となるウジェーヌ・ルソー一派の人と作品についてご紹介しました。
画像は、パリ装飾芸術美術館、オルセー美術館、DROUOT.COMのサイトより拝借しました。

2013年4月28日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その13-

昨日は『春の嵐』といった天気で、我家の周囲20m圏内はピンク色の花吹雪でした。
午前中は20℃以上あったのに午後には9℃ぐらいまで気温が下がり、こういうのを『花冷え』というのでしょうか。
きょうは夫が姉妹社の新着品をまとめて撮影しました。ショップへの陳列準備に取り掛かると暫くブログも書けなくなりますので、その前にガラスの話を一稿UPしておこうと思います。
アールヌーヴォーは私の好きなジャンルだけに、つい力が入り予定より延長してしまい、ご迷惑をおかけしております。
続々編ぐらいで終わるつもりが続々々々・・・になりそうなので、表示を変えました。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅳ》
ナンシー派(ECOLE DE NANCY エコール・ド・ナンシー)という言葉は、たとえば印象派とか象徴派などのように観念的な流派、傾向、スタイルといった意味合いでも使われますが、元はといえば1901年にエミール・ガレのお声がかりで結成された組合のようなグループの自称でした。
初代会長はガレ、副会長はドーム、会員にはヴィクトール・プルヴェ(画家)、マジョレル(家具作家、デコレーター)、ヴァラン(建築家)、ジャック・グリュベール(ガラス作家)、高島北海(日本画家、地質学者)を始め、ロレーヌ地方の工芸家や芸術家が集まり、地元の豊富な装飾美術、工芸などを文化的かつ商工業的に発展させようという活動を展開したものだったのです。定期的に展覧会を開いたり、印刷物などを介してナンシー派のアールヌーヴォー運動を推進し、全国的にそして世界的に広めました。
ナンシーにあるエコール・ド・ナンシー美術館にはそうしたナンシー派の装飾工芸美術の粋が結集しており、アールヌーヴォー愛好家の巡礼地の一つになっています。
ナンシー派のガラスの最終章として、ナンシー派の流れを汲むBig3以外のガラス作家を紹介いたします。

Désiré CHRISTIAN デジレ・クリスティアン(1846-1907)
エミール・ガレと同じ年に生まれ、13歳からマイゼンタールのガラス工房(ガレ親子が自社工房を立ち上げる前に契約していた工房)で働き始めた生え抜きのガラス職人で、ガレとは幼馴染み。作品は自然派でガレの影響が見られる。

Paul NICOLAS ポール・ニコラ(1875-1952)
ナンシーの美術学校で建築と絵画を学んだが1893年からエミール・ガレのガラス工房にデザイナーとして入る。植物が非常に好きで詳しく、植物学者でもあったガレの愛弟子となり、ガラスの技法を伝授される。1919年にサン・ルイガラス工場のバックアップで独立し、d'Argental ダルジョンタルのサインでナンシー派スタイルのカメオ作品を多数作った。1920年代末からはP.Nicolasのサインでアール・デコ的な作品を作り、アール・デコのガラス作家としてむしろ有名。受賞暦も多数持つ優秀なガラス作家。

André DELATTE アンドレ・ドゥラット(1887-1953)
ガラスとは無関係な様々な職業を遍歴した後、MULLER兄弟と親しくなりガラス工芸に目覚める。1919年にナンシーにアトリエを設立し、当初はMULLER工場で吹かれたガラスに加飾をしていたが、1921年にナンシー近くのJarvilleに自社工場を開き、成功する。ガレやドームに良く似たアール・ヌーヴォー作品と、カラフルなアールデコ作品とがある。

Jacques GRUBER ジャック・グリュベール(1870-1936)
ナンシーの美術学校で学んだ後、市の奨学金によりパリでギュスターヴ・モローに師事。1893年ナンシーに帰郷し、美術学校の教師、ドームで花器のデザイナー、マジョレルで家具のデザイナーなどを勤めた後1897年に独立。間もなくステンドグラスのスペシャリストとして有名になり、各地の教会、銀行、邸宅、デパート(パリのギャラリー・ラファイエットの円天井)、豪華客船の照明など大作を数多く手がける。フランスで最も著名なステンドグラス作家である。

画像は私が直接撮影したものの他、Art lorrain aux enchères, artfinding.com, ecole-de-nancy.comなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。

デジレ・クリスティアン作オダマキ文花器  ダルジョンタル(ポール・ニコラ作)ナスタチウム文花器  ドゥラット作薔薇文吊灯

ジャック・グリュベール作ナンシー派美術館(コルバン邸)のヴェランダのステンドグラス


2013年4月21日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その12-

いつも咲くのが何処よりも遅い我家の八重桜も漸くチラリホラリ咲き始めました。
ところが、昨日からまた寒くなってきております。
明日はロワール地方にお出かけだというのに、やっぱりダウンジャケットで着膨れて歩くことになりそうです。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅲ》
ナンシー派のガラスの代名詞のようなガレ、ドームに次いで忘れてはならない名前がもう一つあります。
MULLER FRES Lunévilleのサインでお馴染みのミュレー兄弟(日本ではミューラーと呼ばれているらしい)です。

MULLER Frères ミュレー兄弟社について
1860年代~80年代にかけて9人の男子と一人の女子からなるミュレー家の子供達は、サン・ルイ・レ・ビッッチュの傍の小さな村でオーベルジュ(旅籠)を営む両親の元に生まれたが、周りにはサン・ルイやマイゼンタールなどのガラス工場があり、村人達の殆どがガラス職人という環境に生まれ育った彼らは、ほぼ全員が極自然にガラスの世界に入る。
1870年の普仏戦争でドイツ領となったこの地では17歳になった男子には兵役の義務が課せられたが、ミュレー一家はこの兵役を避ける為、順々に密かにフランス領として残ったナンシーに難民として移住する。
折りしもエミール・ガレがナンシーにガラス工房を開いたばかりの時期であり、兄弟のうち5人が入れ替わりにガレの工房に入り、ここで仕事をしながら秘法を学び取る。
1895年必要なものをしっかり身につけてガレ工房を去ったアンリが、ナンシーに近いリュネヴィルでガラスの加飾工房を起こし、これを機に続々と兄弟達が集まり、アンリ、デジレ、ユジェーヌを中心に、すぐにガレを悔しがらせるほどの大メーカーに発展させてゆく。
途中、戦争や不況で廃業した時期を経ながらも1956年までMULLERの名は続いた。

1895年から1914年までの初期の作品のサインにはMULLERの名の他にCroismareの地名が入っているもの、VSL(1905~1908年ベルギーのヴァル・サン・ランベールにデジレとユジェーヌが招聘されて制作した作品)とサインされたものがあり、この時期の作品は概して芸術性が高く、稀少です。
1919年から1935年の作品にはMULLERの名の他にFRERESもしくはFRES、LUNEVILLEが加えられています。1914~1918年の第一次大戦で、最も芸術家だったと皆が認めていた末弟ユジェーヌを失ったミュレー兄弟が弟への追悼の意味を込めて"Frères"『兄弟』をサインに付け加えることにしたとのことです。
この時期は既にアールヌーヴォーが終焉していたし、1925年以降はMULLER兄弟社もアールデコ様式の作品を制作していたにもかかわらず、何故かガレ工房同様、ミュレー工房でもナンシー派の作品を作り続けています。

MULLER作品は、技法的にはガレやドームが使った技法が全て駆使されており、中には見分けがつかないほど酷似したものも見られますが、一味違う点は、独特の色彩と混ざり具合をもつ雲のような斑文が常に素地に見られることです。この美しい雲斑は配色のパターンが何種もあり、私にはいずれも空のように見えます。

画像は私が直接撮影したものの他、サザビーズ・オークション、クリスティーズ・オークション、DROUOT.COM、lartnouveauenfrance.wordpress.comなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。


《MULLERの花器各種》
(左より)Muller Croismareサインの花器1900年頃  VSLサインの花器2点1905-08
MULLER FRES LUNEVILLEサインの花器2点1925年頃  花蝶文 アネモネ文 

《MULLERのランプ類》

《MULLERの雲斑の色見本》
画像は全て私の新・旧コレクションの花器、ランプ、器などより


2013年4月16日火曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その11-

ここ数日来朝から気温が10℃以上あり、今度こそ本格的に春になったと思っていたところ、きょうは突然27℃ぐらいまで上がり、まるで初夏のようでした。
街のカフェのテラスは久々の陽射しを愉しむ人々で賑わい、薄物の袖無しワンピースで歩いている人も見かけました。
1週間後の夫の誕生日(ロワールのお城に行く予定)までこの陽気が続くといいのですが…。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅱ》
前回は、ナンシー派の巨匠エミール・ガレの話で終わってしまいましたが、きょうはナンシー派のガラスを語るのに絶対欠かすことのできないもう一つのビッグ・ネームであるドームのガラスについて書いておきたいと思います。

DAUM frères ドーム兄弟社について
兄Augusteオギュスト(1853-1909)と弟Antoninアントナン(1864-1930)のドーム兄弟は、6人兄弟姉妹の長男と末っ子としてロレーヌ地方のBitcheビッチュに生まれる。兄弟の父はこの町で公証人をしていたが、1876年一家は普仏戦争でドイツ領となったこの地を去り、Nancyナンシーに移住する。
1878年、兄弟の父Jeanジャンは融資していたナンシーのガラス工場を買取る破目になり、突然全く畑違いながら150人の職人を抱える工場主となる。パリで法律を学んだ後ナンシーの公証人事務所に勤めていた長男オギュストは父の工場経営を手伝うために法律家としての道を断念し、1885年に父が亡くなった後は負債まみれの工場を受け継ぎ、弟アントナンが参加するまで、この運営に孤軍奮闘を強いられる。
アントナンはエコール・サントラル・パリ(工学・技術系エリート養成のための高等教育機関でフランスの理工系ではトップクラスの学校)で学んでいたが、学位取得直後の1887年から兄のガラス工場経営に参画する。
アントナン自身がガラス作家であったように誤解されがちだが、彼は芸術家でも職人でもなく、企画発想力、組織作り、統率力に優れたリーダーでありプロデューサーであった。
ドーム兄弟社は1891年からアートガラス部門を新設し、一切を任されたアントナンは後にステンドグラス作家として有名になるジャック・グリュベールや、優れたイラストレーターであるアンリ・ベルジェなどの若い美術家や技術者を招聘し、アート・ディレクター兼工場内の美術学校の教師として協力を得、アートガラスの制作を充実させていった。
見習い工として雇った少年達に美術の基礎教育をほどこし、優秀な生徒にはナンシー市立およびパリの美術学校にまで進ませるなど人材養成を徹底した結果、師弟共に才能を磨き、多くの優秀な工芸家がドーム社を巣立って行った。
良く知られた名前では先のグリュベール、シュネデール兄弟、アマルリック・ワルターなどが挙げられる。
こうして倒産しかけていたガラス工場は、優秀なドーム兄弟によって立ち直り、1889年にはパリ万博に出品するまでになり、その後も発展を続けて国際的な名声を獲得するに至る。戦争や不況による紆余曲折を経ながらも創業から130年以上経った今なおDaumの名はガラス界において揺るがぬ位置を保持している。(2000年以降のドーム社の経営はドーム一族の手を離れている。)

ドームのガラスとして我々が今も認識できる作品の殆どは1891年以降のものなので1890年代前半を初期と呼ぶとして、初期の製品はヴェールリー・アーティスティック・ド・ナンシーと銘打った1891年のカタログ掲載品ですら、高級感はあるものの未だ本格的なアートガラスとは言い難いヴェネチアンやボヘミアン風な透明ガラスに金彩で装飾したテーブルウェアがメインだったようです。
ところが1893年には、エッチングでカメオ彫りを施した様々なフォルムや意匠を凝らした多層ガラスのアートガラス作品を
既にシカゴの博覧会に出品しているのです。アントナンの推進力のほどが窺えるドーム作品の進化はこの後留まることを知らず、アートガラス部門発足後わずか9年で1900年のパリ万博でエミール・ガレと肩を並べてグラン・プリを分け合うという快挙を遂げたのです。(ガレはこのW受賞を不当であると見做し非常に憤慨したと伝えられます。)
こうした目ざましい進歩の原動力のひとつとして、強力なライヴァルであると同時にアイドルであり、アールヌーヴォー運動の精神的リーダーであったガレの影響があったであろうことは想像に難くありません。

ドームは特許を取った新しい技法をいくつか持っており、特に多用されたものにヴィトリフィカシオンがあります。
一種の被せガラスですが、溶けたガラス種を被せるのではなく熱いガラスに別の色ガラスの粉をまぶし、焼き戻してならすという工程を繰り返すことによって複雑な色の斑紋が比較的簡単に得られる技法で、1900年以降のドーム作品の殆どに使われており、印象派の絵画のような色のニュアンスはこの技法の効果です。
しかし、ドーム作品の最も美しい特徴は詩的な風情を漂わせながらも精緻に描かれた絵にあると私は思います。四季折々の風景や植物が描かれた作品はガレのそれとはまた違い、遠近感や立体感がより自然に近く、暖かく心に迫るものが感じられます。アントナンはこれを故郷ロレーヌの美しい自然の恵みと考えていたようです。

画像は私が直接撮影したものの他、パリ装飾芸術美術館、サザビーズ・オークション、EST-OUESTオークション、ELITEAUCTION.COM、HICKMET FINE ARTSなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。

《初期の実用的な作品》
左より(上)Florentinパターン1891年頃 (下)Irisパターン1900年頃  (上)色被せ+エッチング+金彩のフラコン (下)ロレーヌ十字文キャラフ1891年  ジブレ+エナメル彩グリザイユ風景文ビールセット1892年頃 
(上)エッチング+金彩桜文グラス1893年頃 (下)エッチング+金彩梅文水差し1893年 

《1890年代後半の作品》
(左より) エッチング+エナメル彩+グリザイユ花畑文塩入れ  エッチング+金彩昼顔文花瓶  (上)エッチング+金彩オパルセントガラスアイリス文卵型花器  (下)エッチング+金彩オパルセントガラス鈴蘭文銀器付きミルク入れ  カメオ彫り葡萄文銀器付き水差し 

《代表的な名品》
(左より)カメオ+ヴィトリフィカシオン+アプリカシオン蜻蛉文花器1904年  ヴィトリフィカシオン+エッチング+グリザイユ+エナメル彩花器1895-1900年  エッチング+エナメル彩風雨樹林文花器1895-1900年  ヴィトリフィカシオン+エッチング+エナメル彩華蔓草文花器1900年頃 (上)カメオ+エナメル彩夏景色花器1900-1908年 

《電気照明器具》
(左より)ドーム・マジョレル合作睡蓮のランプ1903年頃  ドーム・マジョレル合作タンポポのランプ1902年頃  


2013年4月9日火曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その10-

パリ市庁舎のセーヌ川に面した庭には木蓮の大木があり、毎年美しく花を咲かせます。
一昨日横を通ったら、いつの間にか蕾が大きく膨らんで今にも咲きそうにピンク色になっていました。
パリにも漸く遅い春が来たようです。
さて、長らく中断してしまいましたが、ガラスのお勉強を再開いたします。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅰ》
アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動です。
モダン・スタイルまた1900年スタイルとも呼ばれ、時代様式もしくは装飾美術様式のひとつとして認識されており、
うねるような植物的で複雑な曲線が特徴的です。私見ですが、ロココ様式やジャポニズムにも通ずる一種耽美的で独特なスタイルは、世紀末のあらゆる芸術に共通の妖しい美学が感じられます。
この伝染病的に流行したアールヌーヴォー運動は、工芸分野を起点として展開しました。そして素材として最も注目されたのがガラスだったのです。
ガラス工芸家に限らず、画家、陶芸家、宝飾工芸家、彫刻家、建築家などがこぞってガラスによる新しい表現の可能性に着目し、これを取り入れたり、自らガラス工芸を手がけたりしました。
こうして、それまでは主に実用のための素材であったガラスが、新たな芸術の表現素材として、更には芸術作品としてよみがえったのです。
アールヌーヴォーのガラス工芸に最初の礎石を置いたのは、パリのユジェーヌ・ルソー(1827-1891)と、ナンシーの
エミール・ガレ(1846-1904)だったといわれます。
共に1878年のパリ万博に出展し、評論家たちに絶賛され、ガラス工芸が世の注目を集めるきっかけを作ったのです。
アールヌーヴォー期のガラス工芸家は、後にパリ派とナンシー派と呼び分けられるようになるのですが、この二人の巨匠が各派の元祖、リーダーであった訳です。
作品の少ないユジェーヌ・ルソーに比べて、圧倒的に多作で組織的に工房を運営していたエミール・ガレは当時から今に至るまで知名度が高く、ガレ抜きにはアールヌーヴォーを語れないほどのビッグネームです。
作品の量のみならず、創作のスタイルや技法の独自性、芸術性、多様性でも郡を抜いており、古今東西を通じて最も著名なガラス作家と言っても過言ではないガレの作品をまずはご紹介したいと思います。

EMILE GALLE エミール・ガレについて
ガレその人についての記述は多く書かれており容易に検索することができますが、簡単にその生涯について記します。
1846年フランス東部ロレーヌ地方の都市ナンシーに生まれる。パリ生まれの父は元々画家で繊細なエナメル彩をよくするアーチストであったが、妻の実家の家業である陶器やクリスタルの販売業を受け継ぎ、これを発展させてオリジナル商品の製造販売をするなど意欲的に商売を展開していた。こうした絵心のある裕福な商人の家の一人息子として生まれたエミールは、大切にしかも大胆に育てられた。
地元での中等教育を終えた後、ドイツ留学やロンドン遊学、また合間にはマイゼンタールのガラス工場でガラス制作技術や会社経営法を学んだり、製陶工場に入り絵付けの仕事をしたりなどして、父の後継者となる為の修業をする。
こうして一通りの勉強を終えたエミール・ガレはついに1872年に自ら小さなガラス工房を作り、1874年からは父を説得して彼がサン・クレマンに持っていた製陶工場を整理させ、設備や職人をすべてナンシーに移し、陶器・ガラス工場を新設して本格的に高級ガラス器や陶器の製造を開始する。
1878年のパリ万博への出品と受賞(金メダル4個)を果たし、初めて世に美術家として名を知られるようになる。
1883年からは家具の制作も始め、寄木細工を主とする装飾的な家具はガラスに劣らず人気を博し、注文が殺到した。
この頃から亡くなる寸前の1904年まで、ほぼ毎年のように国内外の展覧会にガラス、陶器、家具などを出品し、大成功を収め続ける。
1904年、創作へのエネルギーを燃やし尽くした時代の寵児エミール・ガレは、数年前から少しずつ蝕まれていた白血病についに倒れ、9月23日、この世を去っていった。

ガレの作品は、時代や彼自身のスキルや心境の変化につれて様々な変遷を呈し、その特徴をひとことで言い表すことは不可能ですが、一部を除いてほぼ全ての作品に通ずる通奏低音のようなエレメントがあると思います。
それは、自然界への強い想い『憧れ、畏れ、愛』ではないでしょうか。生涯にわたって植物や昆虫を愛したガレは、自分のアトリエの扉に『私の根(原点)は森の奥深くに在る』と記していたとのことです。
経営センス抜群の企業家としての顔と、ナイーブで抒情的で職人的な芸術家の顔を併せ持つガレの作品が人々の心を捉え続ける魅力の源もこの辺りにあるのかも知れません。

画像はパリ装飾芸術美術館、コーニング・ガラス美術館、サザビーズ・オークション、クリスティーズ・オークション、写真家Cédric AMEYなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。

《代表的な名作》
(左より)オダマキ文花器 1902年  『フランスの薔薇』杯 1901年  海藻と貝殻を纏った手 1904年 
(左から4点はナンシー派美術館蔵 右端は旧ルイス・C.ティファニー庭園美術館蔵 パリ・サザビーズ・オークションより)

《第一期工房作品  1874-1904年》
(左より)エナメル彩花器 1900年頃 (上)花蝶文プラフォニエ 1902-1904年 (下)月光色アイスクラック花瓶 1880年頃 (上)エナメル彩ガラス器4点 1880年頃 (下左より)鯉文花器 1878年  蜻蛉文悲しみの花瓶 1889-1890年     藤文花器 1900年頃 

《第二期工房作品  1904-1914年》
(左より)桜文ランプ 1906-1914年   ノワゼット文花器 1906-1914年   アブチロン文ランプ 1904-1906年  (上)クレマチス文小花瓶  (下)ナスタチウム文蓋物

《第三期工房作品 1918-1931年》
(左から)ボケ文花器  コモ湖風景文花器  シャクナゲ文ランプ  プラム文花器  象文花器

2013年3月21日木曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その9-

先日ご近所に不幸があり、お葬式に参列するため初めて我が町のカトリック教会の中に入りました。
18世紀に建てられた教会らしいのですが、中は改装されて何ら見るべき所もない簡素なものでしたが、ステンドグラスの効能に今更ながら気付かされました。その日は小雨もぱらつく曇天だったにもかかわらず、大したこともないステンドグラスを通す外光は思いのほか明るく、赤や青のガラスが色鮮やかに素っ気無い教会の中に光と彩りを与えているのです。
外から見るとステンドグラスが嵌っていることさえ気付かない黒っぽいだけの窓なのに、不思議です。
普通の透明なガラスであったなら、中からはきっと曇り空の陰鬱な灰色が見えただけでしょう。
ステンドグラスって誰が発案したのか知らないけれど、凄いアイディア、と認識を新たにしたのでした。

【ボヘミアン・グラス】17世紀から19世紀まで
ボヘミアといわれても漠然と東欧という認識し持っていなかったのは私だけでしょうか?
地理的には現在のチェコ西部から中部にあたる地方を指し、歴史的には古代よりローマ、ドイツ、ルクセンブルグ家、ハプスブルグ家など色々な勢力に支配されてきた土地だったのですね。
この地でガラスが作られ始めたのは古く、9世紀頃からといわれますが、本格的にガラス産業が始まったのはプラハが神聖ローマ帝国の首都とされ、中部ヨーロッパの文化の中心となった14世紀以降、更なる発展を見せたのはハプスブルグ家のルドルフ2世が神聖ローマ皇帝として在位した16世紀末からといわれます。
この王様はたいへん教養に富み、学問や芸術を擁護し奨励した文化人であった為、多数の優れた芸術家や学者が集まり、プラハは大いに文化的繁栄を遂げたのでした。ボヘミアン・グラスを世界的レベルに発展させたのもこのルドルフ2世だったと言われます。

16世紀以前のボヘミアン・グラスはヴァルトグラス(森林ガラス)と呼ばれる類の素朴なレーマー杯やフンペングラス(大ジョッキ)などドイツ風なものが多く、16世紀から17世紀にかけてはヴェネツィアン・グラスの影響下にあり、スタイルも装飾技法もヴェネツィアン・グラスのそれを踏襲するものでした。
しかし、16世紀末にカリ・クリスタルが発明されてからのボヘミアン・グラスは、ヴェネツィアのクリスタッロを遥かに凌ぐ透明度とグラヴュールやカットに適した強度を得たことにより、独自のガラス工芸技法やスタイルを発展させてゆき、17世紀後半から18世紀にかけてはヴェネツィアを越えてガラス界の王座を獲得し、ボヘミアン・グラスの名を世界に轟かせたのです。
この隆盛期のボヘミアン・グラスには、ゴールドサンドウィッチと呼ばれる金箔や銀箔による切絵を二重の透明クリスタルで挟んだものや、シュヴァルツロットと呼ばれるカットグラスに繊細な黒エナメル彩をほどこしたもの、グラインダーによる精緻なグラヴュール彫刻をほどこしたものなど、格調の高い名品が多く見られます。
19世紀は衰退期に入り、ヴェネツィアン・グラスがボヘミアンに奪われた人気を取り戻そうと悪あがきをして品格を落としていったのと同様に、イギリスで発明された鉛クリスタルの勢力に負けまいと必死になるあまり派手な色ガラス製品を多く作るようになったと言われます。
この時期の代表的なものに、赤や黄色で表面を着色した無色ガラスにグラヴュールで鹿の絵や景色をグラヴュールした2色の花瓶や燭台、またオーヴァーレイと呼ばれる透明ガラスと乳白ガラスや色ガラスを何層か被せ重ね、カットで窓を空けたり、更にエナメル彩やグラヴュールを施したりする装飾的なガラス器があります。
こういった技法は現代のボヘミアングラスにも継承されていますが、19世紀のものは高い技巧と芸術性があり、現代ものとは美しさも値段も格段に違います。

画像はパリ装飾芸術美術館、コーニング・ガラス美術館、石川県立美術館、ヤブロネツ(チェコ)ガラスとジュエリー美術館、クリスティーズ・オークション、ギャルリー・アテナなどのサイトより拝借しました。画像の下のリンクをクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。


《17世紀》
狩猟文エナメル彩フンペングラス  花文グラヴュールのクップ  グラヴュール二段式ゴブレット  カット・グラヴュールのタンブラー

《18世紀》
左からプライスラー作カット・グラヴュール+エナメル彩バッカス文酒瓶  カット+グラヴュール+フィリグラネ+金箔入りシノワズリ文グラス
グラヴュール+エナメル彩オパリーヌのジョッキ(上) 金銀箔サンドイッチのタンブラー(下) プライスラー作シュヴァルツロット彩グラス

《19世紀》
左からカット+クリスタロセラム+透明エナメル彩香水瓶(Harrach製)    カット+グラヴュール天使文タンブラー
オーヴァーレイ+グラヴュールのタンブラー(上) カットウランガラスの蓋物(下) 胴赤着色+グラヴュール鹿文花瓶 

《19世紀のオーヴァレイ作品》
19世紀中頃(左) 19世紀末(右) CHRISTIE'S Parisオークション 2005年6月30日のカタログより