2013年12月29日日曜日

続 NOËL@CONNELLES コネルでノエル

ようやくノエルリポートの最終回、食事編です。
私達は偏食があるので事前にノエルのスペシャル・メニューをメールで送って貰っていたのですが、これがまるっきりクラシックで、思いっきりスタンダードなノエル料理の定番メニューだったので、食べられない物は無いけれどあまり期待はしていませんでした。
今回は珍しく星無しレストランではあるし、値段も高くないし、ノエルだし、ま、いいか、という乗りで一応オシャレだけしてダイニングルームに降りていきました。
バーからはみ出して玄関ホールまでアペリティフを楽しむ人々で賑わっていて、一気にノエルモードに突入です。
とても良い席に案内され、待つほどもなくカクテル・ド・ノエルとアミューズが運ばれ、私達の酒宴が和やかに始まったのでした。いったい何種類のお酒を飲んだことやら…。
お料理は、予想以上でも以下でもなかったけれど、おまかせコースのお酒は意外にも当たりでした。ブルゴーニュ一辺倒の私達なのに、ブルゴーニュは一切出なかったにもかかわらず満足しました。
そして、メートルドテル(RITZに長くいたという初老の紳士)の完璧なサーヴィスが何よりものご馳走でした。

バカラの大きなシャンデリアが煌くダイニングルーム

ノエルのテーブルセッティングが可愛かった。現代物だけれどバカラのアプリックはやはり素敵。
ペール・ノエル(サンタクロース)の髭は自前だった。

バニラ風味のカリフラワーのポタージュはなかなかオツな味だった。
一切れ食べてしまってから撮影したスモークサーモン(ミクロなブリニとビーツの葉のサラダ添え)も美味しかった。

鴨のフォア・グラ、 パンデピスのカリカリ焼き添え。 
スズキのフィレ、ビスク・ド・オマールのソース、クリームリゾット添え。何故か皮が下に。今一だった。

七面鳥の巻物、茸と栗と冬瓜添え。一切れで降参。 正統派ビュッシュ・ド・ノエル。
可愛く出来ていたけれどバタークリームはきつく、一口でギブアップ。

一夜明けて朝のダイニングルーム。ノエルの昼食も予約で満席とのことで、既にテーブルが整えられて。

セーヌの上のベランダ席。朝食はここに席を作ってくれた。美しい季節には気持ちが良さそう。

Moulin de ConnellesのHPはこちらからどうぞ。ヴァーチャル・ヴィジットでご覧下さい。

2013年12月28日土曜日

NOËL@CONNELLES コネルでノエル

昨日の続きで、ノエルのミニ旅行のリポートです。
掲載したい写真が沢山あり過ぎて、どれも捨て難く、セレクトするのに一苦労しました。
というのも、MOULIN DE CONNELLES ムラン・ド・コネル(コネルの水車小屋)は予想以上に素敵な所だったのです。
最悪のお天気だったにもかかわらず、とても良いノエルを過ごせたのは、このホテルが気に入ったからです。
何よりもまずロケーションが素晴らしい!セーヌ河畔(分流)から小さな中ノ島に跨った橋状の館なのです。
ちょうどロワール河のシュノンソー城のミニチュア版のようです。
アングロ・ノルマン様式と俗に呼ばれる英国風が入ったノルマンディー式マノワールといった感じの19世紀末に建てられた大きな館、というよりむしろ小さなお城です。
3ヘクタールほどの島もこのホテルが所有していて、夏は島(庭)でセーヌの流れを眺めながら食事をしたり、ボートで川遊びをしたり出来るようになっています。
次に気に入ったのは、ここの女主人(多分)の接客姿勢。これぞまさに『お・も・て・な・し』と言いたい、真心のこもった完璧なもてなしには感動しました。やたらに謙ってはおらず、むしろ古くからの友人に対するような親しみさえ感じさせながら、礼儀正しく、客の望むことは何でも適えようという健気さ、それがとても自然で感じが良いのです。
彼女はポール・ボキューズの学校を出た人らしいけれど、いくら名門のホテル学校を出ても、客をまた来ようという気にさせるホスピタリティは誰でも身に付けられるものではないでしょう。もっと高級で格も上の有名ホテルで、この穏和な性格の私(?)を怒鳴らせた接客をされた経験もあります。
夫も『珍しいね、あんな感じの良い人』としきりと感心し、あの人に会いにまた行きたいそうです。

ホテル正面玄関側 芝生から右が陸

裏側 島(庭)から撮影 右端の塔が私達の部屋の風呂

玄関ホール バカラのシャンデリアが綺麗

部屋からの眺め 左が寝室(表側)の窓 、右がサロン(裏側)の窓から撮影

サロン 左は夕方、右は朝撮影

塔の中にスッポリ入ったジャクジ付き浴槽とその上の高い天井。 

部屋は、寝室は小さいけれどサロンもあるジュニア・スイート。窓は小さかったけれどセーヌ川の上流側も下流側も眺められたし、何よりもセーヌの上でお風呂に入ったり、寝たりしたのは初体験で面白かったです。バスルームは広く、ジャクジ付きバスタブとシャワー室が別になっていて、バスタブの上が塔の尖がり屋根の内側になっているのが不思議な気分でした。
ノエルのディナーの様子は、また次回レポートします。

2013年12月26日木曜日

JOYEUX NOËL! メリー・クリスマス!

今まさに、きよしこの夜クリスマスです。(日本時間では既に26日ですけど)
昨日のイブは、ノルマンディーのルアンに近いセーヌ河畔のマノワールで過ごしました。
途中寄り道をしてLES ANDELYSという町で降り、ノートル・ダム・デ・ザンドリという教会にお参り(というより見物)しました。
ノートル・ダムつまり聖母マリアの教会ですからノエルに相応しい聖地でもあり、とてもステンドグラスが美しかったので、写真をご覧にいれたいと思います。
読者の皆様へのクリスマスプレゼントです。(マノワールのお話はまた後日)
メリー・クリスマス!

1215年から1570年の長きに渡って完成した教会の全容

入口の聖母子像(19世紀)  正面

お馴染みの聖テレーズ ステンドグラス(16世紀)

教会内に作られたクレッシュ(キリスト降誕場面を表す馬小屋と人形一式)。何故か肝心のキリストが消えていた。

キリスト降誕場面のステンドグラス

2013年12月22日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その21-

クリスマスを目前に控えて天気が下り坂、今朝は灰色の世界です。
今年もノルマンディーでノエルを迎える予定なのに、天気予報では雨。
BOKUがこないだから前脚を痛めてやっと歩いているし…。憂鬱な日曜日です。

今年の2月から始めたアンティーク・ガラス豆百科が予想以上に長引いております。
ガラスの歴史だけでも年内に終らせようと頑張っていたのですが、やっと最終回に漕ぎ着けました。ずっと読んで下さった方(もしいらしたら)にはご迷惑をおかけ致しました。

【アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス】パット・ド・ヴェールの作家達

アールヌーヴォー、アールデコのガラスといえば忘れてならない(というより先ず頭に浮かぶ人が多いかも知れない)のがパット・ド・ヴェール作品です。
Pâte de verre パット・ド・ヴェールとは、本来ガラスのペースト、つまりガラスの練り物といった意味のフランス語です。
一般に、アールヌーヴォー期の不透明な色ガラス作品全般を指す呼称であるかのように誤解され、フランス本国のアンティック業界ですら誤用が定着している感がありますが、『パット・ド・ヴェール』とは一つの限定されたガラス工芸上の技法またはジャンルを指します。
色々な面倒なプロセスを要する手間のかかる技法で、アーティストによってそれぞれ秘法があったようですが、基本的には、色ガラスの粉末を糊で練って鋳型に充填し、型のまま焼き上げて中のガラスを溶解させて成形する技法ということになります。
古代メソポタミアで既に使われていた技法で、その後完全に廃れていたのが1880年代になってフランスの彫刻家アンリ・クロによって再発見もしくは再発明されたといわれます。
どのような形、色、模様でも自由自在に作ることができる上に、加熱されて溶け合ったガラスが自然に創り出す複雑で微妙な色彩やテクスチャーなどのニュアンスを想像しながらも、焼き上げて初めて得られるという偶然性など、陶芸や彫刻にも通ずる要素を持つこの技法は作家の創造力を掻き立てるものであったことと思います。
この時代のガラス工芸界の中で最も創造的で芸術的な作家および作品が生み出されたジャンルであるともいえましょう。

Henry CROS アンリ・クロ (1840-1907)
南仏のナルボンヌに生まれ、11歳から一家でパリに移り、パリ郊外のセーヴルで亡くなる。
親兄弟は学者、医者、発明家でありながら芸術家という非常に知的な家庭環境に育つ。パリの国立美術学校で彫刻と絵画をアカデミックな大家の下で学び、卒業後も自らの芸術を究めるために研鑽を積む。研究者肌な彼は、ルーブル美術館などで古代美術を研究しながら蝋を用いた着色彫刻を試行錯誤するうちに、2000年もの間忘れ去られていたパット・ド・ヴェール技法を再発見し、蝋より恒久的なこのガラスによる彫刻を創案するに至る。
1882年から試作を始め、1889年に公開された彼のパット・ド・ヴェール作品群は注目を浴び、非常な高評を得る。1892年からはセーヴル国立製磁工場に彼専用のアトリエと窯が提供され、ここで生涯創作活動に没頭し、数々の名作を残した。彼自身が名付けた『パット・ド・ヴェール』技法は多くの工芸家を触発し、一つのジャンルへと成長した。

Albert DAMMOUSE アルベール・ダムーズ(1848-1926)
彫刻家で陶磁器装飾家であったピエール・アドルフ・ダムーズの息子としてパリに生まれ、彫刻家および陶芸家としてセーヴルにアトリエを持ち、セーヴルに没す。
父のみならず画家であった弟も含めて陶芸一家として知られる。国立装飾美術学校と国立美術学校に学んだ後、彫刻家としてデビューする。1871年にセーブルに自分のアトリエを開き、死ぬまでこのアトリエで制作活動を続けた。
陶磁器の名窯POUYAT、HAVILANDや画家のブラックモンとのコラボレーションにより、数々の陶芸の名作を残し、一流の陶芸家として作品はオルセー他美術館に収蔵されている。
既に陶芸家として名を馳せていたダムーズがパット・ド・ヴェール作品を作り始めたのは1897年からで、1898年のサロン(展覧会)には動植物をモティーフにした繊細なガラス器を出品した。陶芸の技法を応用し、七宝に似たテクニックも駆使したダムーズ独自のガラス工芸は彼自身によってパット・デマイユと名付けられ、極薄の陶磁器を想わせる一方、陶磁器には出せないガラスならではの透明感のある色彩を有し、最も完成度の高いパット・ド・ヴェール作品と称賛される。1910年に発表された花形のクップなど、その精緻を極めた本物と見紛うほどの繊細なテクスチャーと造形、洗練された美しい色彩、完璧な表現力には驚くばかりである。

Georges DESPRET ジョルジュ・デプレ(1862-1952)
ベルギーの名家に生まれる。父は商工業界及び財界の重要人物であったが、彼は子供の頃から北フランスでガラス工場を経営する叔父に後継者として望まれ、迷わずその進路で準備を整え、叔父亡き後22歳で予定通り経営者となる。一族のパワフルな血を受け継ぎ、彼もまたエンジニア、研究者としてのみならず事業家としても腕をふるい、特殊ガラスを製作する大工場へと事業を大きく発展させ、父と同じように商工業界、財界のリーダー的存在となる。
事業や名誉職の傍ら、工場内に設けた自分のアトリエで、ローマ時代のパット・ド・ヴェールの秘密を研究し続け、アンリ・クロとほぼ同じ頃ついに技法を会得し、人物像などの作品を完成させる。彼は何人かの画家や彫刻家とのコラボレーションで多数のパット・ド・ヴェール作品を制作し、1900年のパリ万博にも作品を出品し、好評を博す。
二度の世界大戦中に彼の工場、アトリエ、彼の作品を収蔵していた美術館などが爆撃を受け、多くの作品が破壊されたため、同時代の他のガラスの大家ほどデプレの名は後世では知られていない、というよりも長いこと忘れられてさえいたが、卓越した技術とガラスをたっぷり使ったダイナミックな作品を残している。
清里北澤美術館(2012年に閉館)の入口に展示されていたラ・ヴァーグ(波)という素晴らしい大作は有名である。

Amalric WALTER アマルリック・ワルター(1870-1959)
セーヴルに生まれ、15歳から祖父や父が働いていたセーヴル国立製磁工場附属の陶芸学校に学ぶ。ここで陶芸の全ての技術や絵付けなどを実習した後、兵役を終えた1893年に正式にセーヴル陶磁器装飾家として雇われ、展覧会などにも出品し、成果を挙げる。
折しも同じセーヴルにアトリエを持つアンリ・クロがパット・ド・ヴェール作品で世の注目を浴びていた時代でもあり、ワルターもこの技法に興味を持ち研究を重ねる。
1903年に陶芸学校の師であったガブリエル・レヴィとの共同制作で初めてパット・ド・ヴェール作品をパリの美術展に出品する。これがアントナン・ドームの目に留まり、レヴィと共にナンシーのドーム社に招聘され1904年からドームの工場でパット・ド・ヴェール作品を専門に制作する。間もなくレヴィはドームを去るが、ワルターは1914年まで残り、ドームのチーフデザイナーであった画家アンリ・ベルジェ他のアーティストとの合作で多くの傑作を生んだ。
第一次大戦後、ドームから独立してナンシーに自分の工房を持ち、色々な画家や彫刻家の協力を得てパット・ド・ヴェール作品を制作し、これらは高級工芸品店で売られた。
彼の作品は粒子の細かいガラス粉を使った為良く溶けて滑らかな肌、色の美しさが際立っており、蟹、海老、カメレオン、カエル、小鳥、蝶などの小動物をテーマにした小品やタナグラなどの小彫像が多い。

François DECORCHEMONT フランソワ・デコルシュモン(1880-1971)
ノルマンディー地方のコンシュ・アン・ウッシュに生まれ、この地に没す。アーティストやアルチザンの家系で、父はパリの国立装飾美術学校の教師で彫刻家。彼自身も国立装飾美術学校に学んだ後、絵画、彫刻に才能を発揮する一方陶芸にも手を染める。陶芸に限界を感じ落ち込んでいた1902年頃、父の薦めもあってパット・ド・ヴェールの研究を始める。そしてついに彼は自分の目指す芸術を表現するための新しい手段を手に入れ、1903年からパット・ド・ヴェール作品を発表し始め、生涯にわたって技法の開発を研究しながら制作を続けた。
彼の作品を最も特徴づけたのは独自に開発した素材パット・ド・クリスタルである。また、蝋型鋳造、二度焼き、表面の研磨など様々なテクニックを独創し、これらを駆使して非常にオリジナルな作品を多数残した。
すぐれたデッサン力、芸術性、テクニックを持つ上に研究熱心な努力家であったデコルシュモンは、発想は勿論、素材作りから仕上げまで全て自分の手で行った稀有な作家の一人である。
昆虫などをモティーフとしたアール・ヌーヴォー的な作品から、典型的なアール・デコ作品、宗教的な題材のステンドグラスまで、幅広く、息の長い制作活動をした偉大なアーティストである。

Gabriel ARGY-ROUSSEAU ガブリエル・アルジー・ルソー(1885-1953)
シャルトルに近い小さな村メレ・ル・ヴィダムの農家に生まれ、パリに没す。田園風景などを描くのが得意な夢見がちな少年であったが、同時に化学や物理も好きで成績優秀な彼は、奨学金を得てパリのエコール・ブルゲ(現在の電子電気工学技術高等学院)に進学する。その後セーヴルの国立陶芸学校にも入学し、アンリ・クロの息子のジャン・クロ等を学友に陶芸技術を学ぶ。技術者としての資格を取得して卒業後、歯科用セラミックの製作所に勤めながらパット・ド・ヴェールの研究を個人的に進める。
1910年代には自分のアトリエを開き、1914年からG.ARGY-ROUSSEAUのサインでパット・ド・ヴェール作品を発表し始める。因みに彼の本名はJoseph-Gabriel ROUSSEAUであり、ARGYは1913年に結婚した妻の姓ARGYRIADESの頭4文字を取ったものである。第一次大戦中は電気関係の技術者、発明家として国の為に働き、いくつかの特許を取っているが、アーティストとしては休業せざるを得なかった。
終戦と同時にガラス作家としての活動を再開し、あらゆる展覧会に出品し名を挙げる。1921年には『Les Pâtes de verre d'Argy-Rousseau』という名で会社を設立し、50人もの職人を雇って量産し、事業は発展を遂げたが、1929年の大恐慌により倒産。その後細々と小さなアトリエで制作を続けるも1933年以降は作品の記録が皆無である。
彼のパット・ド・ヴェールは、エンジニアらしく色ガラスの粉末に金属酸化物を混ぜて発色させる手法で色調の幅が広く、光を透した時の色彩が特に美しく、ランプシェードなどに秀作が多い。彼の作品は、古代をテーマとしたモティーフが多く見られ、非常にデザイン的で典型的なアール・デコ様式でありながら、優しさ、素朴さ、可愛らしさがあり個性的である。

左から Walter 小物入れ『蟹』『ホップ』  Cros 花器『パストラル』  Décorchemont 花器『5匹のスカラベ』

Dammouse クップ2点  Argy-Rousseau 花器『パピルス』 Despret タナグラ『団扇を持つ女性像』

Décorchemont ステンドグラスのディテール (左)1933年 (右)1950年代

 

2013年12月11日水曜日

もうすぐクリスマス

今年は、特に最近、ブログの更新をさぼり過ぎております。
特に忙しかった訳でもなく、書くことが無かった訳でもないのに、何故か怠け癖が付いてしまったようです。
自分で決めたことが出来ない自分が、情けなくなります。一事が万事、ダイエットも然りです。
来年こそは自分を裏切らないこと、自分に厳しくすることを目標にして、テキパキと暮らしたいと思う年の瀬です。
なんて、我にもなく説教じみてしまいましたが、実は気分はどちらかというとルンルン(って死語?)なのです。
だって、もうすぐノエル、そしてお正月なんですもの。自分に厳しくするのは来年からですよ~。

今年のシャンゼリゼのイルミネーションはどうたらこうたら、と何かに書いてあったので写真を撮らなくっちゃと張り切って出かけてみたのですが…、なんだ去年と同じじゃないの。
モンパルナスのお医者さん(夫の主治医)の帰りに、渋滞の中をわざわざ行ったのに、ロンポワンの噴水のところも、シャンゼリゼ大通りも去年と全く変わってませんでした。
この頃は専ら私が運転手なので、今回は夫が車から降りて撮影したのだけれど、カメラが同じだし、スポットも同じなので、写真も殆ど去年と同じで、ガッカリ。
でも、せっかく撮って来たので見てやって下さいまし、お代は頂きませんから。

ロンポワン・デ・シャンゼリゼからコンコルド方面を望む

振り返って凱旋門を望む

ロンポワンの6つの噴水が全てこれ

噴水の後のサパン・ド・ノエルが森のよう

真っ赤なサパンとメインのイルミネーションのディテール。

こうやって並べてみると、実に見事にトリコロール。さすがフランス、やっぱり美しいですねぇ。