街のカフェのテラスは久々の陽射しを愉しむ人々で賑わい、薄物の袖無しワンピースで歩いている人も見かけました。
1週間後の夫の誕生日(ロワールのお城に行く予定)までこの陽気が続くといいのですが…。
【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《ナンシー派 Ⅱ》
前回は、ナンシー派の巨匠エミール・ガレの話で終わってしまいましたが、きょうはナンシー派のガラスを語るのに絶対欠かすことのできないもう一つのビッグ・ネームであるドームのガラスについて書いておきたいと思います。
DAUM frères ドーム兄弟社について
兄Augusteオギュスト(1853-1909)と弟Antoninアントナン(1864-1930)のドーム兄弟は、6人兄弟姉妹の長男と末っ子としてロレーヌ地方のBitcheビッチュに生まれる。兄弟の父はこの町で公証人をしていたが、1876年一家は普仏戦争でドイツ領となったこの地を去り、Nancyナンシーに移住する。
1878年、兄弟の父Jeanジャンは融資していたナンシーのガラス工場を買取る破目になり、突然全く畑違いながら150人の職人を抱える工場主となる。パリで法律を学んだ後ナンシーの公証人事務所に勤めていた長男オギュストは父の工場経営を手伝うために法律家としての道を断念し、1885年に父が亡くなった後は負債まみれの工場を受け継ぎ、弟アントナンが参加するまで、この運営に孤軍奮闘を強いられる。
アントナンはエコール・サントラル・パリ(工学・技術系エリート養成のための高等教育機関でフランスの理工系ではトップクラスの学校)で学んでいたが、学位取得直後の1887年から兄のガラス工場経営に参画する。
アントナン自身がガラス作家であったように誤解されがちだが、彼は芸術家でも職人でもなく、企画発想力、組織作り、統率力に優れたリーダーでありプロデューサーであった。
ドーム兄弟社は1891年からアートガラス部門を新設し、一切を任されたアントナンは後にステンドグラス作家として有名になるジャック・グリュベールや、優れたイラストレーターであるアンリ・ベルジェなどの若い美術家や技術者を招聘し、アート・ディレクター兼工場内の美術学校の教師として協力を得、アートガラスの制作を充実させていった。
見習い工として雇った少年達に美術の基礎教育をほどこし、優秀な生徒にはナンシー市立およびパリの美術学校にまで進ませるなど人材養成を徹底した結果、師弟共に才能を磨き、多くの優秀な工芸家がドーム社を巣立って行った。
良く知られた名前では先のグリュベール、シュネデール兄弟、アマルリック・ワルターなどが挙げられる。
こうして倒産しかけていたガラス工場は、優秀なドーム兄弟によって立ち直り、1889年にはパリ万博に出品するまでになり、その後も発展を続けて国際的な名声を獲得するに至る。戦争や不況による紆余曲折を経ながらも創業から130年以上経った今なおDaumの名はガラス界において揺るがぬ位置を保持している。(2000年以降のドーム社の経営はドーム一族の手を離れている。)
ドームのガラスとして我々が今も認識できる作品の殆どは1891年以降のものなので1890年代前半を初期と呼ぶとして、初期の製品はヴェールリー・アーティスティック・ド・ナンシーと銘打った1891年のカタログ掲載品ですら、高級感はあるものの未だ本格的なアートガラスとは言い難いヴェネチアンやボヘミアン風な透明ガラスに金彩で装飾したテーブルウェアがメインだったようです。
ところが1893年には、エッチングでカメオ彫りを施した様々なフォルムや意匠を凝らした多層ガラスのアートガラス作品を
既にシカゴの博覧会に出品しているのです。アントナンの推進力のほどが窺えるドーム作品の進化はこの後留まることを知らず、アートガラス部門発足後わずか9年で1900年のパリ万博でエミール・ガレと肩を並べてグラン・プリを分け合うという快挙を遂げたのです。(ガレはこのW受賞を不当であると見做し非常に憤慨したと伝えられます。)
こうした目ざましい進歩の原動力のひとつとして、強力なライヴァルであると同時にアイドルであり、アールヌーヴォー運動の精神的リーダーであったガレの影響があったであろうことは想像に難くありません。
ドームは特許を取った新しい技法をいくつか持っており、特に多用されたものにヴィトリフィカシオンがあります。
一種の被せガラスですが、溶けたガラス種を被せるのではなく熱いガラスに別の色ガラスの粉をまぶし、焼き戻してならすという工程を繰り返すことによって複雑な色の斑紋が比較的簡単に得られる技法で、1900年以降のドーム作品の殆どに使われており、印象派の絵画のような色のニュアンスはこの技法の効果です。
しかし、ドーム作品の最も美しい特徴は詩的な風情を漂わせながらも精緻に描かれた絵にあると私は思います。四季折々の風景や植物が描かれた作品はガレのそれとはまた違い、遠近感や立体感がより自然に近く、暖かく心に迫るものが感じられます。アントナンはこれを故郷ロレーヌの美しい自然の恵みと考えていたようです。
画像は私が直接撮影したものの他、パリ装飾芸術美術館、サザビーズ・オークション、EST-OUESTオークション、ELITEAUCTION.COM、HICKMET FINE ARTSなどのサイトより拝借しました。説明文中のリンク(オレンジ色文字)をクリックすると、オリジナルページにジャンプし、詳細な画像や説明がご覧になれます。
《初期の実用的な作品》
左より(上)Florentinパターン1891年頃 (下)Irisパターン1900年頃 (上)色被せ+エッチング+金彩のフラコン (下)ロレーヌ十字文キャラフ1891年 ジブレ+エナメル彩グリザイユ風景文ビールセット1892年頃
(上)エッチング+金彩桜文グラス1893年頃 (下)エッチング+金彩梅文水差し1893年
《1890年代後半の作品》
(左より) エッチング+エナメル彩+グリザイユ花畑文塩入れ エッチング+金彩昼顔文花瓶 (上)エッチング+金彩オパルセントガラスアイリス文卵型花器 (下)エッチング+金彩オパルセントガラス鈴蘭文銀器付きミルク入れ カメオ彫り葡萄文銀器付き水差し
《代表的な名品》
(左より)カメオ+ヴィトリフィカシオン+アプリカシオン蜻蛉文花器1904年 ヴィトリフィカシオン+エッチング+グリザイユ+エナメル彩花器1895-1900年 エッチング+エナメル彩風雨樹林文花器1895-1900年 ヴィトリフィカシオン+エッチング+エナメル彩華蔓草文花器1900年頃 (上)カメオ+エナメル彩夏景色花器1900-1908年
《電気照明器具》
(左より)ドーム・マジョレル合作睡蓮のランプ1903年頃 ドーム・マジョレル合作タンポポのランプ1902年頃
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