2013年9月25日水曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その19-

【アール・デコのガラス】1910年代から1930年代まで 《フランスの主な作家達 Ⅰ》

簡単に纏める予定で始めたアンティーク・ガラス豆百科シリーズ、まだ完結しません。
締め切り期日がある訳でもなければ、催促する人がいる訳でもなく、勝手気ままに綴っているのでついノラリクラリしてしまいますが、久々に更新します。

アールデコのガラス作家として今も世界的な知名度を保っている代表的なアーティスト(ラリック以外の)を挙げてみると、奇しくも全てフランスの或いはフランスで活躍した作家ばかりです。(マニアックに、またもっと詳細かつ広範囲に語ろうとすれば勿論この限りではないのですが、ここでは私見的一般論にとどめたいと思います。)
これはアール・ヌーヴォーのガラスにおけるエミール・ガレの影響力のように、アール・デコにおいてはやはりルネ・ラリックの影響力が大きかったことを意味するのかも知れない、と愚考します。また、19世紀後半から20世紀初頭にかけての美術界全般において、フランスが世界の桧舞台であった事実も関係しているのかも知れません。

Maurice MARINOT モーリス・マリノ(1882-1960)
シャンパーニュ地方のトロワ(18世紀から近年まで繊維産業特にニット産業の中心地として有名)で代々繊維業を営む家庭に生まれる。19歳からパリの国立美術学校でフェルナン・コルモンに師事し絵画を学ぶが、あまりに個性的過ぎると師に見放される。1905年からアンデパンダン展やサロンドトンヌ展に絵画作品を出品し、フォーヴィズム(野獣派)の画家として知られるようになるが、1911年にパリ郊外にあった友人のガラス作家ヴィアール兄弟の工房を訪ねて以来、ガラス工芸の魅力に取り憑かれ、1912年(30歳)よりガラスの研究、技術の習得、ガラス作品の制作に専念する。
1913年には既にガラス作家として個展が開かれ、その後コンスタントに作品の制作、発表を続け、ガラス作家としての名声を築くが、1937年にそれまでアトリエを提供し、協力をしてくれたヴィアール兄弟が工房を閉めたのと同時に彼自身の体力も尽き、病を得てガラス作家を廃業する。故郷に帰り、絵を描きながら晩年を過ごしたが、モーリス・マリノの名は画家としてよりもガラス作家として今も輝き続けている。
初期の作品は薄手のガラスにエナメル彩を施した絵画的なものが多いが、1923年以降は分厚いガラスに大胆なカットやエッチングを施したり、無数の気泡をガラスの中に閉じ込めたりした彫刻的で独創的な作品が多い。ラリック作品とは対照的に、一点一点作家自身の手で創り出されたガラスの芸術作品であるだけに、稀少で滅多に市場に出回ることは無い。アール・デコの作家というより現代作家の作品のような新しさが感じられる個性派のガラスである。

Marius SABINO マリウス・サビノ (1878-1961)
シチリア島(イタリア)に生まれ、4歳の時に一家でパリに移住する。彫刻家であった父の勧めでパリの装飾美術学校及び美術学校で学んだ後、普及し始めた電気の光に魅せられ、照明器具の製作を始める。1920年頃或るガラス作家と共同でパリ郊外にガラスを用いた照明器具の工場を設立し、パリのマレー地区に大きな店も構える。1925年にパリで開催されたアール・デコ展(装飾美術と近代産業美術万国博覧会の略称)に出展し、シャンデリア類が大好評を博す。これを機に豪華客船やペルシャ王宮などの装飾照明を受注したり、海外に販売店を多数持つなど国際的に事業を発展させた。
照明の他に、型による花器や置物などガラスの装飾品も数多く手がけ、これらは大量生産された。1925年からはこうした小物類をオパルセントグラスで作り、サビノといえばオパルセントグラスと現在一般的に認識されているほど主要な商品となる。彼は1939年まであらゆる展示会や展覧会に出品し続け、精力的に活動を展開し、成功を収めたが、第二次大戦後は健康を害し、養子である甥に全てを引き継いで引退する。
彼の死後、全ての作品がアメリカに輸出され、1978年にはアメリカの代理業者がサビノ社の権利や製造設備を丸ごと買い取り、往時の型を使い現在なおSABINOガラスの制作販売を続けている。

Frères SCHNEIDER シュネデール兄弟 (エルネスト1877-1937 シャルル1881-1953)
日本ではドイツ式にシュナイダーと発音されることが多いようだが、彼らはれっきとしたフランス生まれのフランス人で、ナンシーで育った。兄弟はDAUMガラス工場で働きながら、美術の基礎およびガラス工芸の技術や、工場運営のノウハウを習得した後、独立してパリ郊外のエピネー・シュル・セーヌに小さなガラス工房を開く。ドーム兄弟にその才能を見い出され期待と支援を一身に受けた天才的なアーティストであるシャルルと、経営者的能力をドーム兄弟に買われて管理職を任されていたエルネストの最強コンビだけに、めきめきと頭角を表し、1926年-1930年には500人もの職人を抱えるフランス第一の工芸ガラス工場へと発展させる。不況や戦争、事故などで事業は破綻と復興を重ねながらシャルルの息子達の代まで続き、1981年に完全に閉鎖する。
シュネデールの工芸ガラスの特徴は鮮やかで豊かな色彩と造形のオリジナリティ、金属とのコンビネーションなど他に類を見ない個性と完成度の高さにある。幾何学的な図柄がアシッドでグラヴュールされた作品にはLe Verre Français ル・ヴェール・フランセ、またはCharder シャルデール、 またはその両方のサインが見られる。

(左から)Marinot エナメル彩蓋付花器1912年 ・気泡入りカットガラスのフラコン1930年 Sabino シャンデリア1931年・
タナグラ1930年 (上から)Schneider 鍛鉄足付きクップ・ビジュー1918-23年・アシッドグラヴュールの花器1927-28年

2013年9月9日月曜日

ミニヴァカンス au BEC AU CAUCHOIS

ミニヴァカンス終了後既に2週間経ってしまいましたが、漸くこのシリーズの最終回です。

さて3夜目にして最後の晩餐、昼食抜きで臨んだ意気込みでLa Tentation(誘惑)と名づけられたムニュ・デギュスタシオン(おまかせメニュー)に挑もうかとも思いましたが、『最低8皿』にはさすがに怯み、この誘惑を退けて5皿のLa Calville(りんごの名前)メニューにしました。
因みに1夜目のメニューは3皿のLa Petite Calville、2夜目はア・ラ・カルトでした。

アペリティフのカナッペとアミューズは、毎回同じものが出ます。連続3回ディナーする客はいないのでしょう。
前菜は鰹のマリネを取りたかったのに本日は無しとのことで、最初に食べたオマール入りフォア・グラをリピート。
やっぱり美味しい!最初に上質なフォア・グラのまったりとした艶やかな味が舌に絡みつくと思いきや、突然爽やかな潮風が鼻に抜けるようなオマールの香りと食感、更にハーブのほろ苦さが余韻を残すという味の三重奏。こんな複雑で豊かなフォア・グラのテリーヌは食べたことがありません。
次の皿は、前夜と同じ大きなラングスティーヌが1尾、小さなリング状の手打ちパスタ入りの殻から摂ったブイヨンに浸かっており、ディル風味の泡状ソースを浮かしてあります。たまらない、もっと食べたい!後を引く美味しさです。
メインは『再考された純正ルアンの鴨、ズッキーニとオレガノ風味』。メニューには記載されていませんが、小さなりんごの形をしたコロッケと、白ブダンと夏のトリュフのスライスが添えられた豪華な一品。鴨の胸肉はたった一切れですが、しっかりと味付けされた非常に充実したものでした。
チーズのワゴン・サーヴィスの後、デザートと続き、更にミニャルディーズ(小菓子)とコーヒーで締め括るのですが、
デザートまでで降参し、部屋に退散しました。
ワインはLouis Jadot のボーヌ・プルミエ・クリュ2009年、上質なブルゴーニュのピノ・ノワールの芳香に酔い痴れ、ぐっすり眠ったのでした。

満足しました。シェフのお料理はテクニック、独創性、ミリメートル単位でジャストに仕上げられた味加減、火加減、どれをとっても完璧です。欲を言えば3泊3夕食するにはメニューの選択肢がもう少し欲しかったです。
庭に菜園があり、花壇には色々なハーブや食べられる花が植えてあり、どの料理にもお庭で摘んだ野菜や植物が使われているのもナチュラル志向で好感が持てます。
フェカンの人達のために持参した青紫蘇の苗を半分あげたら、シェフはとても喜んで自ら花壇に植えてました。紫蘇のお礼にと、子供達の追加料金をオマケしてくれたので、今度来る時は柚子を持ってきてあげると約束しました。

あれだけ良い食材に手の込んだお料理でお値段は安い!8皿メニュー75€(約10000円)、5皿メニュー57€、3皿メニュー45€と33€。1泊+朝食(二人分)は120€(約16000円)でした。
『また行きたいレストラン』が1軒増えました。

Le Bec au Cauchois (Restaurant PIERRE CAILLET)

大きな暖炉のあるラウンジとレセプション

玄関側の庭(左)と池側の庭(右)

池側の庭に面したメインのダイニングルーム

アミューズ・ブッシュ。キュウリの冷たいポタージュと山羊の生チーズの味のコントラスト(淡白-濃厚)が心地好い。

ラングスティーヌのスープ仕立て。この前にフォア・グラの前菜(一夜目と同じなので割愛します)。

メインのルアン鴨の料理。

夫のショコラのデザート(味見させてくれなかった程美味しかったらしい)。私は一夜目と同じのをリピート。


2013年9月8日日曜日

ミニヴァカンス3日目 ヴァロンジュヴィルからディエップへ

前日は昼にフェカンで飲み過ぎたせいで夜になっても全然お腹が空かず、困りました。
テーブルを予約してあったので無理して食卓に着いたものの、さすがにコースは食べられず、前菜とメインだけでデザート無し、パンにも手をつけず、ワインもハーフボトルがやっとでした。
三夜プログレッシブにメニューをアップグレードしていこうと目論んでいたのに…残念!
でも、ラングスティーヌ(手長海老?)のjuste cuite は、これ以上でも以下でも不可という正にジャストな火の入り方で、ラングスティーヌの美味しさを最大限に引き出した絶妙なお料理で、食欲が無かったにもかかわらず感動しながらいただきました。

さて3日目、何をしようか何処へ行こうか?全くノー・アイディア。ラウンジでPC版ミシュラン・マップを見ながら、テーブルセット中のサーヴィスのお兄さんに相談するも、彼の提案する場所は殆ど制覇してしまっているし…。とりあえずピカピカマークの付いている海辺の町 Varengeville-sur-Mer ヴァロンジュヴィル・シュル・メールという所に行ってみることにしました。
目的地と思しき辺りの街道端にANTIQUITE アンティキテの看板を出している家があったので、寄ってみました。目ぼしい物は無かったけれど、気のいい店主と常連客の二人のおじさん達のおすすめスポットの教会に向かいました。
海を見下ろす丘の上に建つ古い教会 Eglise Saint Valéry(聖ヴァレリー教会) は不思議な建物で、12世紀に建てられ、16世紀に増築され、ステンドグラスの一部は画家ジョルジュ・ブラックの作品で1963年に納められたとのことです。ブラックは、このステンドグラス設置後間も無く亡くなり、この教会の墓地に埋葬されており、折りしも今年没後50年とあってこの辺一帯のあちらこちらに『ジョルジュ・ブラックの年』と記された顔入りの旗がかかっていました。
灯明(キャンドル)を1本あげて教会を後にし、村へ行ってみようとしたところ村らしきものは見つからず、立派な古い館(ブルジョワの別荘?)ばかりなので、諦めて海の方に向かいました。
しかし、『海へ』の表示はあるものの車で行けそうな道も無く、結局、小高い丘から海を見晴らす絶好の場所にある瀟洒なホテルのテラスでお茶をすることに。
今夜こそは★付きのディナーをしっかりと堪能しなくては、と昼食抜きの覚悟を決めていたので、昼時になってきたけれど食事で時間をつぶすこともならず、有り余る時間をどうやって消化するか頭を悩ませました。
朝まで曇っていた空が晴れ、夏の陽射しが戻って来たことでもあり、何度も訪れた港町 Dieppe  ディエップまで足を伸ばすことにしました。ディエップの旧市街を少しぶらつき、暑くなってきたので車に戻り、たっぷり有効時間の残った駐車券を人にあげて一路ホテルへ。
フランスの田舎を走ると、街道沿いに時々ANTIQUITEやBROCANTEの看板を見かけます。期待はしないけれど暇ではあるし、私達の一種の習性でもあり、殆どの場合立ち寄るのですが、Le Bourg-Dun という町を抜けようとした時、看板を見つけました。街道から脇道を少し入ったところに、綺麗な庭のある素敵な藁葺き屋根の民家でBROCANTEの店を開いているのです。買うべき物は何も無かったけれど、少し暇つぶしができました。

なんとか1日をこなしてホテルに帰り着く頃にはさすがにお腹ペコペコでしたが、我慢してディナーへの期待に胸を膨らませたのでした。この日の晩餐については次回にレポートします。

2日目の夕食。左上は私の前菜『蟹を詰めたグリーン・ゼブラ(トマト)と野菜の和え物、アメリカン・ソース』。
左下は夫の前菜『野菜のガスパチョ、オリーブオイルのアイスクリームとトマトのムース添え』。
右は二人とも同じメインの『ラングスティーヌの尾の身juste cuite、アスパラガスとシブレットのムース』。
竹串を打ってポシェした滅多に無いほど大きなラングスティーヌの剥き身はプリプリとして甘く、絶品!

Varengevilleの教会とテラスからの眺め。天気が良かったら絶景かも。

教会内部。左のステンドグラスがジョルジュ・ブラック作。
右はLisieux のSainte Thérèse(聖テレジア)の像。ノルマンディー一帯で祀られているようだ。

お茶をしたホテルのテラスに咲き誇っていた紫陽花。

Dieppeの街中の古い教会 Eglise Saint-Rémy

Le Bourg Dun(ル・ブール・ダン)のBrocanteの店兼住宅。左はこの家の庭から望む町のカテドラル。

2013年9月4日水曜日

ミニヴァカンス2日目 ヴァルモンそしてフェカン

今回のミニヴァカンスのメインである、安くて美味しい(かも知れなかった)料理旅館はVALMONT ヴァルモンという小さな村にある"LE BEC AU CAUCHOIS" ル・ベック・オ・コショワというオーベルジュです。
田舎の街道筋に19世紀からある古いオーベルジュ(旅籠)をリュスティックモダンなホテル・レストランに改装し、若きオーナー・シェフPierre CAILLET ピエール・カイェと奥さんが経営しているのです。
シェフは2011年にMeilleurs Ouvriers de France(国家最優秀職人賞、日本の人間国宝に相当する)を授与された料理人で、2012年にミシュラン赤ガイドで1★を獲得しています。
MOFのコンクールは4年に1度しか開かれず、色々なジャンルに分かれていて、食関係だけでも料理人、パティシエ、ショコラティエ、ソムリエ、バーマンなどの部門に更に分かれます。2011年には400人の料理人が応募した中から10人が選ばれたとのことです。MOFの料理人は襟に三色旗が付いたコックコートの着用が認められ、CAILLET氏も誇らしげに着用しておられました。
三夜連続で名人のお料理をいただくとあって、1日目のお昼は極軽くヴール・レ・ローズ名産の生牡蠣とスープ・ド・ポワソンだけ、デザート無しでディナーに臨みました。
結果は、『大当たり!』でした。私の勘に狂いはありませんでした。またしても『安くて美味しい料理旅館』発見です。
部屋は5部屋しかなく、簡素だけれど清潔で居心地が良く、大きな池に面した美しい庭に直結しており、眺めが素晴らしく、子供達が自由に庭に出で遊べるのが嬉しい。テレビが旧式で小さいのとWifiが繋がらないことを除けば、キャリテ・プリOKです。

1日目は曇りだった天気が2日目は雨になってしまいました。去年も一昨年もインディアン・サマーに恵まれたのに、今年は出かける前日まで続いていた好天がまるで嫌がらせのように急変し、ついてないなあ、まったく。
気を取り直して、車で15分ぐらいのFECAMP フェカンの街へ向かいました。3~4年前から、この街にうちの子供達の親兄弟が住んでいて、私達はそのお宅を子供達の実家と呼んでいるのです。彼等一族はキャラクターが強烈で、特に女子は性格がきつく顔を合わせると喧嘩が始まるので、子供達同士は会わせられません。彼等の養父母であり養祖父母にあたる日本人カップルは、彼等7匹(現在は6匹)のためにパリ1区のアパートを売りはらって港町フェカンに移住したのです。今回は近くに来たついでに、子供達のおばあちゃん達に自家製のカボチャ、キュウリ、茗荷などを届けたのでした。
久しぶりの再会で話が尽きず、フェカンのレストランで海の幸の大盛り合わせをつまみにワインをたくさんいただきました。でも、田舎に会いに行ける親戚(?)が住んでいるのは、なかなか良いものです。今度は、柚子が生ったらまた届けに来るからといって別れました。

日暮れ時のル・ベック・オ・コショワ。野中の一軒家といった風情。

第一夜のディナー。左はアペリティフとおつまみ。自家製バター。りんご入りのパン。
前菜のフォア・グラのテリーヌ、オマールのそぼろ入り。最高に美味!

メインはフェカン湾の平目、キャベツの芯とニワトコの花風味のソース添え。
フランボワーズとピーマンのデザート。意外に相性が良く、大人の味。

部屋の前の庭。水面に朝靄がかかっていた。

モノトーンでシックな朝食のお部屋(夜はレストランの個室として使用)。
コンチネンタル朝食。全て自家製、手作りで美味しい。

朝のお散歩で牛さん達に対面。草を食べていたのを止めてみんなでBB達を見に近付いて来た。
興味津々だったくせに近過ぎると見ないふりをする複雑なBetty。Bokuは我関せず牛に負けじと草を食む。

左はBB達のパパVinci。右は妹(姉かも)のMomoちゃん。ママが亡くなり、今はパパと小父さんとお兄ちゃんと姉妹3匹が牡雌1匹ずつの3グループに分かれて家庭内別居で暮らしている。


Le Bec au Cauchois のHP: http://www.lebecaucauchois.com/