今年もノルマンディーでノエルを迎える予定なのに、天気予報では雨。
BOKUがこないだから前脚を痛めてやっと歩いているし…。憂鬱な日曜日です。
今年の2月から始めたアンティーク・ガラス豆百科が予想以上に長引いております。
ガラスの歴史だけでも年内に終らせようと頑張っていたのですが、やっと最終回に漕ぎ着けました。ずっと読んで下さった方(もしいらしたら)にはご迷惑をおかけ致しました。
【アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス】パット・ド・ヴェールの作家達
アールヌーヴォー、アールデコのガラスといえば忘れてならない(というより先ず頭に浮かぶ人が多いかも知れない)のがパット・ド・ヴェール作品です。
Pâte de verre パット・ド・ヴェールとは、本来ガラスのペースト、つまりガラスの練り物といった意味のフランス語です。
一般に、アールヌーヴォー期の不透明な色ガラス作品全般を指す呼称であるかのように誤解され、フランス本国のアンティック業界ですら誤用が定着している感がありますが、『パット・ド・ヴェール』とは一つの限定されたガラス工芸上の技法またはジャンルを指します。
色々な面倒なプロセスを要する手間のかかる技法で、アーティストによってそれぞれ秘法があったようですが、基本的には、色ガラスの粉末を糊で練って鋳型に充填し、型のまま焼き上げて中のガラスを溶解させて成形する技法ということになります。
古代メソポタミアで既に使われていた技法で、その後完全に廃れていたのが1880年代になってフランスの彫刻家アンリ・クロによって再発見もしくは再発明されたといわれます。
どのような形、色、模様でも自由自在に作ることができる上に、加熱されて溶け合ったガラスが自然に創り出す複雑で微妙な色彩やテクスチャーなどのニュアンスを想像しながらも、焼き上げて初めて得られるという偶然性など、陶芸や彫刻にも通ずる要素を持つこの技法は作家の創造力を掻き立てるものであったことと思います。
この時代のガラス工芸界の中で最も創造的で芸術的な作家および作品が生み出されたジャンルであるともいえましょう。
Henry CROS アンリ・クロ (1840-1907)
南仏のナルボンヌに生まれ、11歳から一家でパリに移り、パリ郊外のセーヴルで亡くなる。
親兄弟は学者、医者、発明家でありながら芸術家という非常に知的な家庭環境に育つ。パリの国立美術学校で彫刻と絵画をアカデミックな大家の下で学び、卒業後も自らの芸術を究めるために研鑽を積む。研究者肌な彼は、ルーブル美術館などで古代美術を研究しながら蝋を用いた着色彫刻を試行錯誤するうちに、2000年もの間忘れ去られていたパット・ド・ヴェール技法を再発見し、蝋より恒久的なこのガラスによる彫刻を創案するに至る。
1882年から試作を始め、1889年に公開された彼のパット・ド・ヴェール作品群は注目を浴び、非常な高評を得る。1892年からはセーヴル国立製磁工場に彼専用のアトリエと窯が提供され、ここで生涯創作活動に没頭し、数々の名作を残した。彼自身が名付けた『パット・ド・ヴェール』技法は多くの工芸家を触発し、一つのジャンルへと成長した。
Albert DAMMOUSE アルベール・ダムーズ(1848-1926)
彫刻家で陶磁器装飾家であったピエール・アドルフ・ダムーズの息子としてパリに生まれ、彫刻家および陶芸家としてセーヴルにアトリエを持ち、セーヴルに没す。
父のみならず画家であった弟も含めて陶芸一家として知られる。国立装飾美術学校と国立美術学校に学んだ後、彫刻家としてデビューする。1871年にセーブルに自分のアトリエを開き、死ぬまでこのアトリエで制作活動を続けた。
陶磁器の名窯POUYAT、HAVILANDや画家のブラックモンとのコラボレーションにより、数々の陶芸の名作を残し、一流の陶芸家として作品はオルセー他美術館に収蔵されている。
既に陶芸家として名を馳せていたダムーズがパット・ド・ヴェール作品を作り始めたのは1897年からで、1898年のサロン(展覧会)には動植物をモティーフにした繊細なガラス器を出品した。陶芸の技法を応用し、七宝に似たテクニックも駆使したダムーズ独自のガラス工芸は彼自身によってパット・デマイユと名付けられ、極薄の陶磁器を想わせる一方、陶磁器には出せないガラスならではの透明感のある色彩を有し、最も完成度の高いパット・ド・ヴェール作品と称賛される。1910年に発表された花形のクップなど、その精緻を極めた本物と見紛うほどの繊細なテクスチャーと造形、洗練された美しい色彩、完璧な表現力には驚くばかりである。
Georges DESPRET ジョルジュ・デプレ(1862-1952)
ベルギーの名家に生まれる。父は商工業界及び財界の重要人物であったが、彼は子供の頃から北フランスでガラス工場を経営する叔父に後継者として望まれ、迷わずその進路で準備を整え、叔父亡き後22歳で予定通り経営者となる。一族のパワフルな血を受け継ぎ、彼もまたエンジニア、研究者としてのみならず事業家としても腕をふるい、特殊ガラスを製作する大工場へと事業を大きく発展させ、父と同じように商工業界、財界のリーダー的存在となる。
事業や名誉職の傍ら、工場内に設けた自分のアトリエで、ローマ時代のパット・ド・ヴェールの秘密を研究し続け、アンリ・クロとほぼ同じ頃ついに技法を会得し、人物像などの作品を完成させる。彼は何人かの画家や彫刻家とのコラボレーションで多数のパット・ド・ヴェール作品を制作し、1900年のパリ万博にも作品を出品し、好評を博す。
二度の世界大戦中に彼の工場、アトリエ、彼の作品を収蔵していた美術館などが爆撃を受け、多くの作品が破壊されたため、同時代の他のガラスの大家ほどデプレの名は後世では知られていない、というよりも長いこと忘れられてさえいたが、卓越した技術とガラスをたっぷり使ったダイナミックな作品を残している。
清里北澤美術館(2012年に閉館)の入口に展示されていたラ・ヴァーグ(波)という素晴らしい大作は有名である。
Amalric WALTER アマルリック・ワルター(1870-1959)
セーヴルに生まれ、15歳から祖父や父が働いていたセーヴル国立製磁工場附属の陶芸学校に学ぶ。ここで陶芸の全ての技術や絵付けなどを実習した後、兵役を終えた1893年に正式にセーヴル陶磁器装飾家として雇われ、展覧会などにも出品し、成果を挙げる。
折しも同じセーヴルにアトリエを持つアンリ・クロがパット・ド・ヴェール作品で世の注目を浴びていた時代でもあり、ワルターもこの技法に興味を持ち研究を重ねる。
1903年に陶芸学校の師であったガブリエル・レヴィとの共同制作で初めてパット・ド・ヴェール作品をパリの美術展に出品する。これがアントナン・ドームの目に留まり、レヴィと共にナンシーのドーム社に招聘され1904年からドームの工場でパット・ド・ヴェール作品を専門に制作する。間もなくレヴィはドームを去るが、ワルターは1914年まで残り、ドームのチーフデザイナーであった画家アンリ・ベルジェ他のアーティストとの合作で多くの傑作を生んだ。
第一次大戦後、ドームから独立してナンシーに自分の工房を持ち、色々な画家や彫刻家の協力を得てパット・ド・ヴェール作品を制作し、これらは高級工芸品店で売られた。
彼の作品は粒子の細かいガラス粉を使った為良く溶けて滑らかな肌、色の美しさが際立っており、蟹、海老、カメレオン、カエル、小鳥、蝶などの小動物をテーマにした小品やタナグラなどの小彫像が多い。
François DECORCHEMONT フランソワ・デコルシュモン(1880-1971)
ノルマンディー地方のコンシュ・アン・ウッシュに生まれ、この地に没す。アーティストやアルチザンの家系で、父はパリの国立装飾美術学校の教師で彫刻家。彼自身も国立装飾美術学校に学んだ後、絵画、彫刻に才能を発揮する一方陶芸にも手を染める。陶芸に限界を感じ落ち込んでいた1902年頃、父の薦めもあってパット・ド・ヴェールの研究を始める。そしてついに彼は自分の目指す芸術を表現するための新しい手段を手に入れ、1903年からパット・ド・ヴェール作品を発表し始め、生涯にわたって技法の開発を研究しながら制作を続けた。
彼の作品を最も特徴づけたのは独自に開発した素材パット・ド・クリスタルである。また、蝋型鋳造、二度焼き、表面の研磨など様々なテクニックを独創し、これらを駆使して非常にオリジナルな作品を多数残した。
すぐれたデッサン力、芸術性、テクニックを持つ上に研究熱心な努力家であったデコルシュモンは、発想は勿論、素材作りから仕上げまで全て自分の手で行った稀有な作家の一人である。
昆虫などをモティーフとしたアール・ヌーヴォー的な作品から、典型的なアール・デコ作品、宗教的な題材のステンドグラスまで、幅広く、息の長い制作活動をした偉大なアーティストである。
Gabriel ARGY-ROUSSEAU ガブリエル・アルジー・ルソー(1885-1953)
シャルトルに近い小さな村メレ・ル・ヴィダムの農家に生まれ、パリに没す。田園風景などを描くのが得意な夢見がちな少年であったが、同時に化学や物理も好きで成績優秀な彼は、奨学金を得てパリのエコール・ブルゲ(現在の電子電気工学技術高等学院)に進学する。その後セーヴルの国立陶芸学校にも入学し、アンリ・クロの息子のジャン・クロ等を学友に陶芸技術を学ぶ。技術者としての資格を取得して卒業後、歯科用セラミックの製作所に勤めながらパット・ド・ヴェールの研究を個人的に進める。
1910年代には自分のアトリエを開き、1914年からG.ARGY-ROUSSEAUのサインでパット・ド・ヴェール作品を発表し始める。因みに彼の本名はJoseph-Gabriel ROUSSEAUであり、ARGYは1913年に結婚した妻の姓ARGYRIADESの頭4文字を取ったものである。第一次大戦中は電気関係の技術者、発明家として国の為に働き、いくつかの特許を取っているが、アーティストとしては休業せざるを得なかった。
終戦と同時にガラス作家としての活動を再開し、あらゆる展覧会に出品し名を挙げる。1921年には『Les Pâtes de verre d'Argy-Rousseau』という名で会社を設立し、50人もの職人を雇って量産し、事業は発展を遂げたが、1929年の大恐慌により倒産。その後細々と小さなアトリエで制作を続けるも1933年以降は作品の記録が皆無である。
彼のパット・ド・ヴェールは、エンジニアらしく色ガラスの粉末に金属酸化物を混ぜて発色させる手法で色調の幅が広く、光を透した時の色彩が特に美しく、ランプシェードなどに秀作が多い。彼の作品は、古代をテーマとしたモティーフが多く見られ、非常にデザイン的で典型的なアール・デコ様式でありながら、優しさ、素朴さ、可愛らしさがあり個性的である。
左から Walter 小物入れ『蟹』『ホップ』 Cros 花器『パストラル』 Décorchemont 花器『5匹のスカラベ』
Dammouse クップ2点 Argy-Rousseau 花器『パピルス』 Despret タナグラ『団扇を持つ女性像』
Décorchemont ステンドグラスのディテール (左)1933年 (右)1950年代
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