2013年5月31日金曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その16-

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《パリ派 Ⅲ》

LEGRAS & Cie  ルグラ社(1870年代~1920年代)
フランソワ‐テオドール・ルグラ(1839-1916)はヴォージュ地方の森の中の小さな村で木こりの子として生まれ、20歳から3年間地元のガラス工場で働いた後、パリに出て郊外のサン・ドニのガラス工場に下級従業員として雇われる。ガラス職人としてのキャリアも足りず、学歴も財産も無かったルグラ青年は自らの才覚と努力だけで見る見る頭角を表し、あっという間にこのガラス工場の経営者にまでなり、雇われた当初従業員70人程度だった中小ガラス工場を1880年代には1500人もの従業員を抱える大企業にし、社会的にもレジオン・ドヌール勲章を授与される程の名士となった立志伝中の人物である。故郷から呼び寄せた甥のシャルルとテオドールにガラスの技法や化学を学問的に修得させて事業に実践させ、後継者に仕立て上げた。彼等の技術は万博などでの数々の受賞や特許を得、ルグラの名を世界に知らしめた。
ルグラの製品および作品は多岐に渡り、酒、薬、香水などのメーカーからの発注による商業用容器類から家庭用の実用ガラス器、照明、高級工芸品まで実に幅広い。
技法的にも多種多様を極めるが、最も特徴的で他に抜きん出ているのはエナメル彩の技法と、各種色ガラス素地の発色の美しさであろう。サインの無い作品が多く、また作品の種類や時代によってサインが変わるため、『ルグラ』の名前は現代では往時ほど有名ではなく、サインが無いものは『サン・ドニ』とか『パンタン』などと大雑把に地名で呼ばれることが多かった。つい10年ほど前から急に研究や分析がし直され、同時に作品も見直されるようになり『ルグラ』のアンデンティティーも価値も再認識されるようになったのである。
それまで別の工房のように思われがちだった『MONTJOYEモンジョワ』や『INDIANAインディアナ』のサインのあるアーティスティックな作品も今では漸くルグラと知られるようになり、著名な鑑定家でさえオークションで『PANTINパンタン』と片付けていたエナメル彩作品もきちんと特定されつつある。

Cristallerie de PANTIN パンタン・クリスタル工場(1851-1914~1918)
元々はMonotというリヨンのクリスタル工場出身の職人が1851年に隣町ヴィレットに興し、間もなくパンタンに移した小さな工場であったが、1876年以降次々と加わった3人の共同経営者によって工場は大きくなり、Monot引退後1886年頃から社名をStumpf, Touvier, Viollet & Cieと改め、第一次世界大戦の頃まで繁栄が続いた。(その後ルグラ社に吸収合併されたという説が最近まで信じられていたが誤りで、ルグラが吸収したのはPantinにあった別の工場であった)
"Cristallerie de Pantin"または上記3人の名前のイニシアル"STV"をモノグラムにしたマークがサインされた作品は19世紀末~20世紀初頭のもので、控えめな虹彩ガラスに色被せしアシッドでレリーフしたものやエナメル彩と金彩で花絵が描かれたものが多い。1907年頃にアーティスティック・ディレクターとして入ったDe Varreuxが導入および監修した一連の絵画的なカメオ作品には"de Vez"ドゥヴェーズとサインされている。1910年にミュゼ・ガリエラに展示されたこれらの作品は、その技術の高さ、新しさを専門家に絶賛されたという。

このように1800年代後半から1900年代初頭には、パリの北に接する郊外の街パンタン、サン・ドニ、クリシーなどに大小のガラス・クリスタル工場がたくさん存在し、互いに切磋琢磨してパリ派のガラスを大いに発展させたのです。

(左手前)ルグラ"INDIANA"シリーズ (左奥)ルグラ"RUBIS"シリーズ  ルグラ"MONTJOYE"シリーズ
パンタン"フクシア文虹彩カメオガラス"シリーズ  パンタン"de Vez"シリーズ

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