2013年7月10日水曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その17-

パリも少しだけ暑くなってまいりました。
或る程度気温が上がってくれないことには、畑の野菜が育たなくて困るのです。
ご近所でも評判の、日本の種で作る我家のキュウリが無いと、夏は過ごせません。
暑いのは苦手だけれど、寒い夏というのもなんだか寂しいです。
な~んて言っていると、突然ドカーンと猛暑が来たりして、恥をかく羽目になりかねませんから、もう苦情は申しません。それこそ天任せ、成るように成れ、ケ・セラ・セラです。
と、ここまでは実は3日前の話でして…
来ました!やっぱり。猛暑というほどではありませんが30℃級の暑さが。でも風があるし、カラリとして気持ち良いです。

さて、久々に(6月は1話も書いてなかった!)ガラスのお話の続き、いってみたいと思います。

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで  《欧米諸国の作家達》

Louis Comfort TIFFANY ルイス・コンフォート・ティファニー  (1848-1933)アメリカ
世界的に有名なニューヨークの宝飾店ティファニーの経営者の息子として生まれる。家業の宝飾店の経営に関わることを拒み、自ら芸術家として生きる道を選び、複数の画家に師事し、欧米各地に遊学しながら絵画を学ぶ。
絵画、室内装飾、ガラス工芸、宝飾デザイン、その他アートディレクターとしてあらゆる装飾芸術に通じ、潤沢な資金源をバックに自らの工房ティファニー・スタジオ(1885-1928)を主催したアメリカを代表するアール・ヌーヴォーの作家である。
その幅広い創作活動の中で最も重要な部分を占めるガラス工芸は特に異彩を放って世の注目を集め、ガラス工芸史および装飾美術史上にも大きく名を残した。
主要作品としては、絵画的で色彩豊かなステンドグラスやこれを応用したランプ類、ティファニー自らファヴリル・グラスと名付けた玉虫色に輝くラスター彩(虹彩)ガラスの器や花瓶、ランプシェードなどがある。 
『ファヴリル』の語源は"手作りされた唯一無二のもの"を表す古い英語で、ティファニーのガラス作品への思いが込められている。しかし皮肉にも、彼の手法とスタイルは多くのコピーを生み、ティファニー・グラスやティファニー・ランプとまで総称される一つのジャンルを成した感がある。いわば『アメリカのガレ』的な巨人であることの証しと言うべきか。

ルイス・コンフォート・ティファニーの作品

Thomas and George WOODALL ウッダル兄弟(1849-1926 1850-1925)イギリス
トーマスとジョージの兄弟は芸術的才能豊かな家庭に生まれ、早くから音楽や美術に親しみ、地元のストアブリッジ美術学校でガラス工芸をジョン・ノースウッド(1836-1902 ローマ時代のガラスの名器『ポートランドの壷』の複製を完成させたことで有名なガラス作家。イングリッシュ・カメオ・グラスの父的存在)に学ぶ。Thomas Webb & Sons社に所属し、
師の技術やスタイルを継承したネオ・クラシックなカメオ作品の秀作を多数残した。

Ludwig MOSER ルードヴィッヒ・モーゼル(1833-1916)ボヘミア 1918年までオーストリア 現チェコ共和国
カルロヴィ・ヴァリ(独名カールスバート)に生まれ、少年時代にウィーンや地元の工芸学校に少し通った後、地元の有名なガラス彫り師の工房に見習いに入る。
1857年に独立してガラスの加飾工房と店を立ち上げる。当初は需要の多かった鏡やシャンデリアを主に制作販売していたが、やがて高級テーブルウェアを手掛け、ヨーゼフ・ホフマン、ルドルフ・ヒレルなどの名工達の協力を得てウィーンやパリの展覧会などで数々の受賞に輝き、1904年以降オーストリア王室や英国エドワード7世の御用達をつとめるまでに至る。一貫してカリ・クリスタルの透明生地にカットやグラヴュールを施したガラス器をメインとしたが、アール・ヌーヴォー期にはエナメル彩や金彩、また淡い色被せガラスにレリーフカットを施した作品を作った。
『王者達のガラス、ガラスの王者』をスローガンにモーゼル・クリスタルは健在である。
カリ・クリスタルについての稿(アンティークガラス・豆百科-その3-)もご参照ください。

Val Saint-Lambert ヴァル・サン・ランベール(1825~現在)ベルギー
1825年創業のベルギーが世界に誇るクリスタル・メーカー。リエージュの傍のヴァル・サン・ランベール修道院跡に5つのガラスメーカーのグループによって創立された工場は、時の国王達のバックアップを得て急速に成長し、20世紀初頭には5000人もの従業員を抱える巨大企業となり一時は世界一のガラスメーカーであった。2度の世界大戦や世界恐慌の影響で傾き、1970年代になって復興し現代に至る。ベルギーはフランスに劣らずアール・ヌーヴォー運動が盛んな国であっただけに、この会社のアール・ヌーヴォー期の作品は多彩で充実している。
1897年から38年間チーフデザイナーを務めたLéon LEDRUは1855年パリに生まれ、1888年にこの会社に入るまではフランスのセーヴル・クリスタル工場で働いていた人で、彼の持つ明るい人格とクリエイティヴで現代的なセンスが、Val St-Lambertのコレクションを豊かにしたといわれる。1905年から3年間、ナンシーのMULLER兄弟が招聘され、DAUM風な作品をと乞われて500種ものモデルを制作したことも忘れてはならない。MULLERについての稿(アンティーク・ガラス豆百科-その12-)もご参照ください。

Karl KÖPPING カール・ケッピング(1848-1914)ドイツ
ドレスデンとミュンヘンで化学を学んだ後、ミュンヘンの美術学校およびパリで絵画を学び、アカデミックな銅版画家として活躍する。日本美術品の蒐集を始めてよりアールヌーヴォーに目覚め、植物的な繊細な美をガラスで表現したいと思い立ち、ガラス工芸を手がける。優秀なガラス技術者の協力を得て実現された作品は、危ういまでに繊細で美しく、風に揺れる可憐な花のようにはかなげなグラスなど、非常に個性的で芸術性が高い。

Johann LOETZ Witwe レーツ(1848-1940)ボヘミア 1918年までオーストリア 現チェコ共和国
1838年に設立されたガラス工場を1848年にスザンヌ・レーツ(ヨハン・レーツ未亡人)が引継ぎ、『ヨハン・レーツ未亡人(Witwe)ガラス工場』という社名で再創業。1879年からはレーツの孫にあたるMax Ritter von Spaunマックス・リッター・フォン・シュパウン(1852-1909)が受け継ぎ、大いに発展させた。社名を変えなかったのでレーツで通っているが、実はシュパウンこそがこのガラス・メーカーを世に知らしめた立役者なのである。
彼は優秀な後術者をディレクターとして迎え入れ、自らは創作に専念し、次々と意欲的な新作を創り出しては展覧会に出品し受賞を重ねた。1895年にはレーツのガラスを最も特徴付けたラスター彩(メタリックな虹彩)ガラスの特許を得ている。ティファニーの『ファヴリル・グラス』のようにシュパウンはこれを『フェノメーン・グラス』と名づけた。1900年のパリ万博で、ガレ、ドーム兄弟、ロブマイヤー、ティファニーと並んでグラン・プリを受賞している。余談だが、ガレはこの時の受賞に関して『コピーがオリジナルと一緒に受賞するなんて…云々』とティファニーとレーツを引き合いに、ドーム兄弟が自分と並んで受賞したことを苦々しげに知人への手紙に書いたといわれる。しかし、ティファニーとレーツのラスター彩ガラスに関しては、特許も発表もほぼ同時期であり、コピー説は頷けない。

左からウッダル兄弟(上)、 トーマス・ウェッブ&サンズ(下)、モーゼル、ヴァル・サン・ランベール、ケッピング、レーツ




2013年7月2日火曜日

Antique 姉妹社は1歳になりました!

きょうから7月、パリはまだ暑くならないけれど、気分は『夏が始まった』という感じです。

私のネットショップAntique 姉妹社が1歳の誕生日を迎えました。
もう1年? まだ1年? やっと1年? ウーン、どれとも言えますね。
この1年を振り返ると、おかげさまで、まずまず好調なオープニングだったと思います。
試行錯誤を繰り返し、苦しみつつ、楽しみつつ、こだわりながら手作りで立ち上げたホームページでした。
少しずつ訪問者が増えて、お得意さまもできて、お会いしたこともないお客様から寄せられる奇跡のような信頼に、
感謝と責任を深く感じます。
そして、より良い物、美しい物を届けたいと常に願いながら、宝探しを続けております。
我ながら、素敵な仕事ができて幸せだな、と思う誕生日でした。


1周年を記念してセール開催中です。遊びに来てくださいね。


2013年6月24日月曜日

プラージュ・ブルー公園または『白鳥の湖』

前にも書いたかもしれませんが、私の住む町には公園や緑地が多く、子供達のお散歩コースは選り取り見取りです。
ゆっくり往って帰って1時間半ぐらいの最長距離コースは、PLAGE BLEUE(青いビーチ)公園です。
子供達の一番のお気に入りコースなのですが、寒い日は凍えそうになるし、暑い日はBOKUちゃんがへたるし、格好の散歩日和には夫が足が痛いから嫌だと言うし、なかなか行けません。
先日久々に行ったら、白鳥のカップルが『みにくいアヒルの子』を連れているのに出会えてラッキーでした。
折りしも子供のスポーツ祭り週間にあたってしまい、県内の小学校から遠足して来たらしい子供の群れがローラースケート競争やら、ビーチサッカーやら園内の其処此処を占領していて、いつもなら閑古鳥が鳴いている公園がお祭り騒ぎで、写真が撮れる場所も限られました。
出かけた時には素晴らしく晴れていた空も曇ってきて、あまり綺麗な写真が撮れませんでしたが、シンプルでモダン、しかも自然で大らかにデザインされた美しい公園です。
(画像をクリックして大きくして見てくださいね。)

 絵に描いたような睦まじい家族写真が撮れた。

 けっして醜くないアヒルならぬ白鳥の子達。可愛い!

 白鳥の他にカモやpoule d'eau プルドー (直訳すると水鶏。日本名はバンというらしい)も常駐している。

 大きなカナダ雁のグループ。時々私の部屋の窓から群れで飛ぶ姿が見られる。

 自然な感じに見えて、実は人工的によく設計された公園内のあちらこちら。花の趣味が私好み。

帰途へ向かうBETTYとBOKUの後姿。もっと遊んでいきたいのに…。

2013年6月17日月曜日

La Vie en Rose... バラ色の人生

またしても、しかも今回は20日間もの長期にわたってブログをさぼってしまいました。
忙しかった訳でもなく、何か事件が起きたのでもなく、何かに夢中になっていたというのでもないし、
いったい私は何をしていたのでしょう?
前回ブログを更新した時は薔薇の季節が始まろうとしていたのでしたが、せっかく薔薇の蕾が膨らんだ頃、雨がたくさん降り、咲く前に朽ちてしまったり咲いた花がすぐに散ってしまったり、やっと今頃、世の中ラ・ヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)になりました。

花はすべて綺麗ですが、薔薇の花の美しさには何か芸術性が感じられます。
手をかければ、かけただけ応えて綺麗に咲いてくれると言われる薔薇ですが、この頃ちっとも手入れをしていない我家の庭にも、けなげに咲いてくれました。
もっとも、かなりソヴァージュになりかけてはおりますが…。

名前を忘れてしまったけれど、オールドローズ系の大好きな薔薇。小さな蜘蛛が花の中に…
(画像をクリックして拡大してご覧下さい)

グリルに沿って沢山小さな花を咲かせる可愛い薔薇。隣にはなぜか野バラが自生して仲良く共存している。

MEILLAND系の香しい大輪の薔薇。小さな薔薇の花に大きな玉虫色のカナブンが…

ウチのカンパニュールは遅咲きで星型。芍薬も薔薇に負けてない。ジャングル化した自称(?)バラ園。

いつもウットリ見惚れているご近所の薔薇。とても上品なピンク色で、私の一番のお気に入り。

2013年5月31日金曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その16-

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《パリ派 Ⅲ》

LEGRAS & Cie  ルグラ社(1870年代~1920年代)
フランソワ‐テオドール・ルグラ(1839-1916)はヴォージュ地方の森の中の小さな村で木こりの子として生まれ、20歳から3年間地元のガラス工場で働いた後、パリに出て郊外のサン・ドニのガラス工場に下級従業員として雇われる。ガラス職人としてのキャリアも足りず、学歴も財産も無かったルグラ青年は自らの才覚と努力だけで見る見る頭角を表し、あっという間にこのガラス工場の経営者にまでなり、雇われた当初従業員70人程度だった中小ガラス工場を1880年代には1500人もの従業員を抱える大企業にし、社会的にもレジオン・ドヌール勲章を授与される程の名士となった立志伝中の人物である。故郷から呼び寄せた甥のシャルルとテオドールにガラスの技法や化学を学問的に修得させて事業に実践させ、後継者に仕立て上げた。彼等の技術は万博などでの数々の受賞や特許を得、ルグラの名を世界に知らしめた。
ルグラの製品および作品は多岐に渡り、酒、薬、香水などのメーカーからの発注による商業用容器類から家庭用の実用ガラス器、照明、高級工芸品まで実に幅広い。
技法的にも多種多様を極めるが、最も特徴的で他に抜きん出ているのはエナメル彩の技法と、各種色ガラス素地の発色の美しさであろう。サインの無い作品が多く、また作品の種類や時代によってサインが変わるため、『ルグラ』の名前は現代では往時ほど有名ではなく、サインが無いものは『サン・ドニ』とか『パンタン』などと大雑把に地名で呼ばれることが多かった。つい10年ほど前から急に研究や分析がし直され、同時に作品も見直されるようになり『ルグラ』のアンデンティティーも価値も再認識されるようになったのである。
それまで別の工房のように思われがちだった『MONTJOYEモンジョワ』や『INDIANAインディアナ』のサインのあるアーティスティックな作品も今では漸くルグラと知られるようになり、著名な鑑定家でさえオークションで『PANTINパンタン』と片付けていたエナメル彩作品もきちんと特定されつつある。

Cristallerie de PANTIN パンタン・クリスタル工場(1851-1914~1918)
元々はMonotというリヨンのクリスタル工場出身の職人が1851年に隣町ヴィレットに興し、間もなくパンタンに移した小さな工場であったが、1876年以降次々と加わった3人の共同経営者によって工場は大きくなり、Monot引退後1886年頃から社名をStumpf, Touvier, Viollet & Cieと改め、第一次世界大戦の頃まで繁栄が続いた。(その後ルグラ社に吸収合併されたという説が最近まで信じられていたが誤りで、ルグラが吸収したのはPantinにあった別の工場であった)
"Cristallerie de Pantin"または上記3人の名前のイニシアル"STV"をモノグラムにしたマークがサインされた作品は19世紀末~20世紀初頭のもので、控えめな虹彩ガラスに色被せしアシッドでレリーフしたものやエナメル彩と金彩で花絵が描かれたものが多い。1907年頃にアーティスティック・ディレクターとして入ったDe Varreuxが導入および監修した一連の絵画的なカメオ作品には"de Vez"ドゥヴェーズとサインされている。1910年にミュゼ・ガリエラに展示されたこれらの作品は、その技術の高さ、新しさを専門家に絶賛されたという。

このように1800年代後半から1900年代初頭には、パリの北に接する郊外の街パンタン、サン・ドニ、クリシーなどに大小のガラス・クリスタル工場がたくさん存在し、互いに切磋琢磨してパリ派のガラスを大いに発展させたのです。

(左手前)ルグラ"INDIANA"シリーズ (左奥)ルグラ"RUBIS"シリーズ  ルグラ"MONTJOYE"シリーズ
パンタン"フクシア文虹彩カメオガラス"シリーズ  パンタン"de Vez"シリーズ

2013年5月29日水曜日

『カトリーヌのお客日』at SERAPHIM House

慢性的に『貧乏暇無し』の妹から珍しくメールが届き、何かと思ったら展覧会の宣伝をして欲しいという依頼でした。
なぜ、今回に限って?と首をかしげながら主催者SERAPHIMさんのHPを拝見していたら、時の経つのも忘れて見入ってしまいました。
ページに漂う私が忘れかけていたロマンティシズムが懐かしくて、胸がキュンとなりました。
お店の場所もまた、私が少女時代に通っていた学校のある国立(くにたち)です。
桜並木の道を友達と帰りながら、道草して一橋大学の構内に入り込み、赤レンガの洋館がロマンティックに思えて外国にいるような気分に浸ったりしたことなど思い出しました。
国分寺のアンティークショップ、ガラクタヤさんのCafé des Rosiersでのお茶会というのも楽しそうです。


画像をクリックすると該当ページにジャンプします。

夢のような美しいページが満載のSERAPHIMさんのHP

2013年5月26日日曜日

アンティーク・ガラス豆百科 -その15-

ちっとも天気が回復しません。
昨日の朝は5℃、日中でも8℃という寒さに加え、時折雨風も吹き荒れて最悪でした。
おまけに注文したガラスのシェードが粉々になって届き、気分も真っ黒に荒れ模様。
今朝も灰色の雲が空を覆っているけれど、なぜか晴れ間が見えて来そうな予感がして、心の気圧計も上昇中です。

と、書いたのは昨日の早朝だったのですが、私の予感が的中して午後から天気も気分も晴れました!

【アール・ヌーヴォーのガラス】19世紀末から20世紀初頭まで 《パリ派 Ⅱ》

Philippe BROCARD フィリップ・ブロカール (1831-1896)
パリ派のガラス作家の中で最も早くから、最も特異な作品を世に送り出したアーティスト。
彼は古美術品の修復を職業としていたが、或る時パリのクリュニー美術館で見たモスク・ランプに魅せられ、自らイスラム・ガラスの蒐集と技法の研究、制作に励む。試行錯誤を繰り返した末、ついに完璧にイスラム式エナメル彩ガラスの技法を独力でマスターし、1867年には万博に初出品を果たす。その後もエナメル彩ガラスの第一人者として数々の展覧会で受賞を重ねる。彼の作品は、模様を縁取りし厳密に色止めされた精緻な多色エナメル彩で素地を覆い尽くした豪華絢爛たるもので非常に美しく、13~15世紀の『イスラムの華』と称された本物のイスラム・ガラスの名品に優るとも劣らない完成度の高いものと評される。フランスの国立美術館はもとより大英博物館やコーニング・ガラス美術館にも所蔵されている。

Frères PANNIER パニエ兄弟 (1853-1935/1944)
ジョルジュとアンリのパニエ兄弟の名前を知る人は少なく、"Escalier de Cristal"エスカリエ・ド・クリスタル(クリスタルの階段)という彼等の店の名前の方が有名である。パリのオペラ座界隈に1802年から1923年まで続いた高級工芸品店で、陶磁器、クリスタル、ブロンズなどを扱い、各国の王室や有名人を顧客に持つパリのエレガンスとリュックスの象徴のような店だったという。
オーナーは何度か変わり、パニエ兄弟は1890年~1923年最後のオーナーとなった訳だが、彼等のジャポニズムとアールヌーヴォー趣味に徹した品揃えはエミール・ガレをして『恒久的展覧会』と言わしめるほどのものであったようだ。
バカラ、ガレ、ティファニー、マジョレルなど当時の一流どころに特注した品を更に彼等のアトリエで加飾し、店のサインを入れてオリジナル商品としたが、それに飽き足らず、彼等自身がデザインをしてクリシーのアペール兄弟のガラス工房で作らせたガラス作品もいくつかある。作品や商品の特徴は、ガラスやクリスタルの花瓶に鍍金したブロンズの装飾や台座を付けたリッチなジャポニズムである。

Amédée de (duc) CARANZA アメデ・ド・カランザ  (1843-1914)
トルコのイスタンブールに生まれ、若くしてフランスに渡る。音楽家、画家、陶芸家、ガラス作家というマルチ・アーティスト。ロレーヌ地方のロンウィやボルドー、南仏などで陶芸の仕事をした後、1890年から1914年頃までピカルディーのノワイヨンという町で工芸ガラス作家兼音楽家として暮らす。第一次世界大戦中に消息を絶つ。作風は非常に装飾的で、陶芸の技法を取り入れた銀彩、虹彩ガラスが多く、スタイルはジャポニズムからアールヌーヴォー、時にアールデコ的なものまである。作品は各国の美術館に所蔵されているが、市場に出回ることは滅多にない。

Auguste JEAN オギュスト・ジャン (1829~1896)
もともと陶芸家であったが1870年代の初め頃からガラス作家として活躍する。作品はクリスタルリー・ド・クリシーにて制作され、1885年にこの工場がクリスタルリー・ド・セーヴルに買収されたのと同時に彼は工芸ガラス界を去り、その後の消息は不明である。作品は宙吹きした色クリスタルを飴細工のようにデフォルメしたりアプリカシオンしたりして成型した器にジャポニズムなエナメル彩の絵付けを施したものが多く、自由奔放で奇抜なフォルムは人を瞠目させた。セーヴルやルグラに彼の作風を模倣したものが見られる。

フィリップ・ブロカール1870年頃 パニエ兄弟1890年 アメデ・ド・カランザ1900年頃 オギュスト・ジャン1880~1890年

画像はオルセー美術館、liveauctioneers.com/などのサイトより拝借しました。