2018年1月29日月曜日

ゴーギャン展 -その2-

相変わらず雨時々曇りの天気が続いていて、セーヌ河やマルヌ河の増水により各地に洪水が起きています。
パリとその周辺も既に洪水の被害があちらこちらに出ていて、今現在も洪水警戒地域(オレンジゾーン)になっております。
我家の辺りはセーヌ河やその支流のイエール川からは1km以上離れているので大丈夫ですが、隣町のヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュでは洪水の被害に遭っている家がたくさんあるようです。
家を探して色々な物件を見て回っていた時、隣町の川岸の家も見て、庭からボートで川に出たり釣りが出来たりするなんて素敵!と惹かれたのですが、買わなくて正解でした。
ここ数日、Oが体調を崩し寝込んでおり、私もBokuの散歩以外ほとんど家に籠りっきりなので近隣の町の情況は実際見ておらず、大使館からのメールやネットで異常を知り驚きました。

さて、また少し間が空きましたがゴーギャン展の続きです。

《 私はタヒチに行きます、そしてそこが私の終の棲家になればと思います。貴方が愛してくださる私の芸術は、私の萌芽に過ぎません。私は彼の地にてその芽を自らの為に育てたいと願っています、原始的で野性的な状態で。》
ゴーギャンからオディロン・ルドンへ 1890年
この大きな写真パネルがタヒチ以前と以後の展示作品を隔てる階段の踊り場に掲げられていた。

《ウパウパ》(祭)または《火の踊り》或いは《悪魔は語る》1891年

《タヒチの女達》または《浜にて》1891年

《Ahaoe Feii?》(何、嫉妬してるの?)1892年

《Te Nave Nave Fenua》(芳しき大地)1892年
タヒチのイヴとも言えるこの同じ主題でパステル、モノタイプ、木版画などが作られた。

《Tehura》(テフラ)又は《タヒチ女の顔》或いは《テハマナ》木彫 1892年
テハマナ(通称テフラ)はゴーギャンの描いた多くのタヒチ女のモデルとなった少女で、彼のタヒチでの妻を兼ねていたらしい。上の絵も彼女がモデル。

《タヒチの牧歌》1892年

《Noa Noa》(芳しき香り)木版画 1893-1894年
ノアノアは、ゴーギャンが執筆したのタヒチ紀行または随想集の題名。

《I Raro Te Oviri》(私はラロ、あなたはオヴィリ)又は《パンダナスの下で》1891年


《Nave Nave Moe》(芳しき水)1894年


《Merahi Metua No Tehamana》(テハマナの祖先たち)1893年


《Manao Tupapau》(死霊が見ている)1892年


《帽子を被った自画像》1893-1894年冬
背景に上の絵が描かれている。


《 Mahana No Atua》(神の日)1894年


《Oviri》(野生)部分的に施釉された炻器 1894年


《白馬》1898年


《 Te Rerioa 》(夢)1897年


《そして彼女達の肉体の黄金》1901年


《ヴァイルマーティ》または《彼女の名はヴァイルマーティ》1897年


《Faa Iheihe》(タヒチの牧歌)1898年


《Rupe Rupe》(豊穣)または《果実の収穫》1899年


《Nave Nave Mahana》または《芳しき日々》1896年


《快楽の家》の入口の装飾パネル 木彫 1901-1902年
タヒチを去り、マルキーズ諸島のヒバ・オア島に移ったゴーギャンが建てて住んだ家のファサード。


《祈り》1903年
上のファサードの奥に展示されていた絵。


《テレーズ》と《好色な神父》木彫 1902年
《快楽の家》の入口への階段の左右に飾った彫刻で、土地のカトリック布教所の神父とその愛人と噂される召使いとを当てこすったものらしい。


《偶像(ヒナ神)のある自画像》1893年

展示作品はまだまだ在りましたが、人だかりが切れず撮れなかったり、撮ったけれどボケてたりで、何とか撮れて見られる写真だけを掲載しました。
ゴーギャンの世界、魅了されました!溢れんばかりの才能に圧倒されました。
おそらく本人は地上の楽園と夢見た土地でもっともっと自由に自分の芸術を育み、開花させたかったのだと思いますが、病や訴訟(名誉棄損で告訴され投獄もされた)や資金調達やらで体力を消耗し、惜しくも54歳の若さで世を去りました。
しかし短くも濃い滅茶苦茶な生涯を送り、あれだけ大量のしかも多彩な作品を残した怪物ゴーギャン、もっと生きていたらどんなことになっていたのでしょう。

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